2018.10.12

奥さんがいなかったらとっくに会社を辞めて楽しく刹那的に生きていただろう。

けれども奥さんが足枷になっていると感じたことは一度もない。

「自分を苦しめてきたのは不可能性よりもむしろ可能性のほうだった」というようなことを、いつだか弟が書いていた。僕もそう思う。野放図に何でもできるという自由よりも、あれはできないがこれはできるというふうに、制約のなかで工夫していくほうが気分も楽チンで軽くなるということが、確かにあるのだ。また、本人はその不可能性を制約ともなんとも思っていないことのほうが多かったりする。そもそも奥さんは最高なので、僕がリスクを取ることを止めないだろうし、それをちゃんと二人のリスクとして引き受けてさえくれるだろう。奥さんは「あれもしちゃだめ、これになさい」とは言わない。むしろ「なんでもいいよ」と言ってくれる。それでも、奥さんは「あれもできるしこれもできるやろうと思えば何でもできる!」という可能性に窒息しそうになる危険から予め僕を引き離してくれる。ありがたいことです。

自分の分をわきまえるということと、他人の都合のいいように自身を矮小化することの見分けは難しい。自尊感情を損なうことなく渡れる人のほうが少数派のように思える、鬼すらも卑屈なこの世にいてはなおさら困難だ。

いまは、大過渡期だと思ひます。私たちは、當分、自信の無さから、のがれる事は出來ません。誰の顏を見ても、みんな卑屈です。私たちは、この「自信の無さ」を大事にしたいと思ひます。卑屈の克服からでは無しに、卑屈の素直な肯定の中から、前例の無い見事な花の咲くことを、私は祈念してゐます。

太宰が「自信の無さ」と題した短文にこう書いてから八十年近くたってもまだ大過渡期を抜け出せてはいないらしい。卑屈の肯定から見事な花なんか咲くわけもなく、ろくでもない膿しか出てこないのではないか、そんな疑念すらも浮かんでくるような出来事が多くて、ぐったりする。卑屈は自信のなさからくるのではない。自尊の乏しさからくるものなのだと思う。

誰ともわからない人のために、自分を卑小なものに貶めることは、そのまま他人の価値を貶めることに繋がっている。自分のために、誰かを卑小なものに貶めることは、そのまま自分の価値をどぶに捨てている。腐らずくさすこともなく、のうのうと機嫌よく生きていければそれだけで十全に現状への否を突きつけることになるだろうと思い、なるべくそのようにいる。機嫌よくいることは最高の復讐である。

「あれもできるしこれもできるやろうと思えば何でもできる!」という幻想を持ちづらい世で、なぜかまだ「あれもできるしこれもできるやろうと思えば何でもできる!」という思い込みが根強く生き残っているのではないか。現実は、あれもできなければ、これだって怪しいものだ。「ぶっちゃけ、できることそんなにない」というところから、創意工夫を凝らしていくしかないんじゃなかろうか。意識高めても別に景気が上向くわけじゃないし、楽しい低みで会おうよ。