セネット『クラフツマン 作ることは考えることである』を読みながら(2018.10.27-11.01)

神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ

カート・ヴォネガットスローターハウス5伊藤典夫


もうほとんどミームになっている上記文句を、久しぶりに思い出し、しみじみと良く、大人に、おっさんに、なったなあと痛感する。

セネット『クラフツマン 作ることは考えることである』という本を読んでいて、WIREDの「ものづくりの未来」特集号を読んでいたときにちょうどインゴルド『メイキング』を読んでいたので、お、著者インタビュー載ってる、と思ったらそれはインゴルドではなくセネットで、手仕事についての論考であることに加えて白い造本も混同しやすく、なんか違う人だったけど面白そうだしいつか読も、と思っていた『クラフツマン 作ることは考えることである』をいま読んでいる。ものづくり=クラフトとは、無限の可能性への挑戦ではなく、むしろ不可能なことを制限として受け容れて、その制限のなかでいかに働くかという営為なのだと本は言う。クラフツマンは可能と不可能の境界領域で逡巡することで、長く緩慢な時間をかけて「できること」を増やしていく。格好いい。

とにかくそうして楽しく読んでいて、WIREDのことを思い出し、そのまま「おっさんvs世界」についての対談記事を見つけて、それを読んでいたら若林恵ヴォネガットを引いていて、おお、ヴォネガット、となり、最初の文句を思い出したのだった。


カート・ヴォネガットが、どこかの高校だか大学の卒業式で講演した文章っていうのがあって、それがぼくは好きなんですよ。「大人はみんな『これからの世界を変えるのは君たちだ』なんて言うけれど、君たちには地位も人脈もないんだから残念ながら世界は変えられません」って言うんです。でも、変えられるときは必ず来るから、そのときが来たらちゃんと変えなさいってなことを言うんですが、ここが実際は本当の勝負だと思うんです。20年ガマンして、やっと何かを変えられる地位や権限を得たときには、自分もすっかりあれだけ嫌ってたおっさんになってるっていうのが、わりとありがちなことだと思うので。クソだなって思うこと自体、若いうちは簡単なんですよ。でもその思いを持ち続けることは結構難しい。

https://www.businessinsider.jp/post-162239


渡辺拓也飯場へ』を読んでから、職場の「勤勉」倫理を内面化することへの忌避感がはっきりと像を結んだような気がしている。いま僕らをこき使うおっさんへのヘイトは、使用者の倫理に対するヘイトである。しかしいざ自分がおっさんとなり、クソだなと思う構造に取り掛かれるだけの地位や人脈や権限を手にするとき、そのときの自分の倫理観とは、いままさに憎悪している「使用者の倫理」ではないか、という予感。予感というか、そろそろ気の早い使用者たちからは中堅と呼ばれるようになってきたいま、僕は知らず知らずのうちにこの「勤勉」の倫理観をすこしずつ我が物にしていることに気がついて、心底ゾッとしたのだ。「自分もすっかりあれだけ嫌ってたおっさんになってる」というのは、ものすごい恐怖だ。僕は「勤勉」でも「有能」でもありたくねえ、という気持ちを、おっさんになるまで持ち続けること、そのうえでそうした「勤勉」倫理の解体を実践できる程度の地位までの出世を目指すこと。それって両立可能なのかしら。どんどん自信がなくなってくる。おお、神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ。


『クラフツマン 作ることは考えることである』を読み終わった。全編にわたり職業倫理の内面化についてポジティブな捉え方をしていて、それはそれで面白い。クオリティを追求する「勤勉」とは、完璧主義という名の強迫観念である。「勤勉」への執着は、個人の「有能」を示したいというロマンチシズムから起こる。クラフツマンの型通りの順序への忘我的没入というのは、余分な自意識を手放す実践なのである。これは、個人の能力の差異をことさらに強調して、「有能」を競うように駆り立てられる新自由主義経済のただ中で、ますます孤立を深める私たちに顧みるべき何かを感じさせるではないか。ウェルビーイングでもマインドフルネスでもいいけれど、肥大する自意識に苦しむ私たちが取り戻すべきはクラフツマンシップなのだ。よりよいものを作ること。そのために型を徹底的に反復練習すること。その反復、試行錯誤のプロセスはそれ自体で大きな喜びである。クラフトとは、行為の外にある目的を達成するための単なる手段ではなく、それ自体に目的を内包した絶え間ない実践なのだ。その実践は孤独な個人の実践ではありえない。型の取得は先人たちの手仕事をトレースすることであり、そうして体得した技術を、また後継者へと手渡していく、そうした社交の形成をも意味するのだから。さあ、個人の差異をことさらに強調するのではなく、クラフトの型を練習し、失われた自他の境界領域すなわち公共圏をもう一度作り直そうではないか。


セネットの結論はちょっと夢想が過ぎるけれども、インターネットが見せてくれたコミュニティの夢というのは、だいたい同じような形をしていなかったか。インターネットにより作り手=生産者が自分で情報発信できるようになったし、もう小売りなんていらないじゃんね、という気持ちもかつてはあったが、いまは商売のプロ舐めんな、という気持ちのほうが強い。クラフツマンの権威だけを強調するでもなく、消費者を神様とおだてるでもなく、周縁にいる対等な媒介者として、三方良しの利害の調整を為すのが商売人であるはずで、若林恵が示す編集者としての矜持とも通じるようなものを、商売人は持っていいはずだ。セネットはよきクラフツマンは合理的な倹約家でもあるとしているが、これはまさに商売人が身につけるべき技能だろう。利害関係者の利益の最大化を、できる範囲で、嘘をつかず、正直に追及する、それもひとつのクラフトだよね、という気持ちにもなれるからいい本だった。

これはまったくの余談だけど自分たちのことを「効率厨」「貧乏性」と評する僕ら夫婦は、まさしく合理的な倹約家としてのクラフトを日々営んでいるとも言えるだろう、なんてことまで連想したからいい本だった。


最近は石田梅岩が気になっていて、『都鄙問答』って外山滋比古『新エディターシップ』の商人版みたいなものなんじゃないかと読んでもいないくせに勝手に想像しているのだけど、とにかく商人のクラフトマンシップというものを、追求してみるというのはいいかもしれないな、と思えるようになってきた。どうせ奉仕するなら、会社の、おっさんの、使用者の倫理ではなく、実践者の倫理に奉仕したい。余分な自意識を手放すことと、生き延びるための自己表現は、両立しうるどころか前者の達成をして初めて後者がいいものになるような予感がある。


そんなことを考えながら『クラフツマン』を読む時間だった。作ることは考えることであり、読むことは書くことであったから、こうして書きながら読んでいた。

そんなときによんだfuzkueのブログがとてもよくて、いまの気分にあまりにしっくりきて、嬉しかった。


先日受けた、公開された、Squareのインタビューで僕は、店を始められた理由として「世界への信頼みたいなものじゃないですか。そういう店があったら行きたい僕という人間が、ここにいる。それなら、同じような人間が、小さな商売が成り立つ程度にはいるんじゃないのかな、きっといるでしょ、この世界には、という信頼。」と言っていて、いい言葉だなと思ったし、個人が小さななにかを始めようとするとき、主語が大きかった、僕が小さななにかを始めようとするとき、これ以外に拠り所にできるものはないように思う、自分は特別な存在ではないという認識。自分ごときがこうやってほしいと思っているこの欲望なんて、そんなのは凡庸な、ありふれた、特別変わった欲望ではないはずだ、という認識。じゃ、大丈夫でしょ、どうにかなるでしょ、という期待。やるだけやって、サボったり立ち止まったりしながらもできる範囲で嘘なく、自分の目を騙すことなく、本当に自分だったらほしいものになっているかどうかをちゃんと問いただして、それを具現化できたとしたら、それでそれをできる範囲で外に知らせようと努めて、できたら、できたとしたら、あとはまかせたというか、もしまったくダメだったら、それはもう、世界が悪い、世界に落胆して失望して終わりにすればいい、世界につばを吐いて、ほんとお前らは揃いも揃ってクソ愚かだな、バカなの? と言っておしまいにすればよかった

http://fuzkue.com/entries/582


「勤勉」でも「有能」でもない僕は良き労働者にはなれないだろうけど、でもなんか「いい仕事」はしたいよね、と素直に思うこともある。