2019.03.08

僕は奥さんの、心配になるくらいの素直さと、フラットなやさしさが好きでたまらない。とはいえ、素直さややさしさは手放しに誉められたものではないというのも、思うことではあった。


僕が奥さんがすばらしいのは、ふたりのずるさや冷淡さの程度が同じくらいだからだと思っている。素直なずるさというのも、やさしい冷淡さというのも、そもそもまったくおかしなものではないのだけど、その塩梅がむつかしい。ひねくれた結果素直に吸収できるものが多くなる、自分本位の計算高さでひとにやさしくすることができる、というのがいい塩梅だと僕は信じていて、その信じかたが奥さんとそこまで乖離していないからこそ居心地がいいのだと思う。まず自分の満足や安心がなければ、ひとのためになにかしてやろうなんて気持ちにはなれないし、もし自分が与えられていない満足や安心を、ひとに施すことで代替的に得ようなんていうのは、けっこう危険だと感じてしまう。


素直ってバカって意味じゃないし、やさしいってお花畑なわけじゃない。どちらもけっこうな闘争心や反骨精神、計算高さと小賢しさがあってはじめて発揮されるものなのではないか。そう僕は思っているのだけど、だからこそひとからバカにされやすい素直さや優しさというものに対して抱く違和感も人一倍大きいように思う。素直さを守りたければ、やさしくありつづけるためにも、舐められちゃダメだ、という謎の悲壮感が僕にはある。


自分の都合を最優先できないで、他人のために犠牲を払えてしまうというのは、しかしやっぱりとっても不気味ではないか。仕事に忙殺されてほとんど家に帰ってこれない同居人を考えると、僕はついそんなことを考えてしまう。もっと要領よくやれないのか、とも思いかけるが、要領のよさなんて言うのは環境の相性によって左右されるもので、個人のあれこれでどうにかなる問題じゃないだろう。要領よくやれないのだとしたらそれはその人ではなく環境が悪い、すくなくともその人と環境との相性が悪い。その人に悪さを求めるのは絶対にまちがっている。わからない。素直であること、やさしいこと、正直であること、がんばり屋さんであること、そうした美徳は自分で自分を満足させるためには有効だけれども、自分を規定するものとしては使い勝手が悪すぎる。そんなもののために自分の余裕や生活を追い詰めて、それで、何があるというのだろう。


いやもう昔からわからないのだ。幼稚園のお遊戯会、宿題、部活動、サークル活動、仕事などの自分をときめかせもしない用事のために、自分の生活を犠牲にできるということが。べつに幼稚園のお遊戯会、宿題、部活動、サークル活動、仕事がそれ自体でつまらないものだとか悪いとか言いたいわけじゃない。それらにときめくひとはいくらでもときめけばいい。僕はいつからこんまりに感化されたのか。でもまあ、根拠なく植え付けられた執着よりも、自分本位なときめきを優先するべきだというのはその通りだと思う、その通りも何も、こんまりそんなことをが言っているのかどうかは知らない。とにかく、なんだっけ、だから僕はときめけない用事に忙殺されることをよしとできる心性がどうしても理解できない。だからなんというか、そういう状況にある人たちを前にすると、わからん! と頭を抱えてしまうのだ。これが「方向性のちがい」というやつなのだろうか。いや、違うな、とにかく僕はひとの余裕や生活を追い詰めて、自らの都合を満たそうとするようなひとや組織というものに対して憤っているのだ。違和の原因をひとに求めてもしょうがない。いや、ほんと、ひとの生活を舐めないでいただきたい。


個人の生活を舐めがちな組織だとか社会だとかに対して、「世の中が悪い」みたいな聞き分けのいい諦念でなく、「ぜんぶあいつらのせいだ」みたいな幼稚な憤りでもなく、「舐めないでいただきたい」と言い渡し、堂々と渡り合っていくためには、なにが必要なのだろう。手ぶらでいいやつでいるには心もとない現実に、がっかりもするけれど、武器さえあればまだやれるという楽観も、僕は捨てきれないでいる。