2019.03.10

家から駅までの道の街路樹は、根本のところがゴミ捨て場になっているものがあって、そこには「ゴミ捨ての曜日じゃない日にゴミを捨てないでください。誰かが必ず見ています。」みたいな手書きの注意書きが、ゴミ出しカレンダーの看板の上のほうに針金でくくりつけられている。


それを見るたびに、この「誰かが必ず見ています」になんかモヤモヤするんだよね、という話を、モヤモヤとまとまらないまま、休日出勤に出かける奥さんと一緒に電車に乗った僕は話していた。奥さんとの話は噛み合わず、会社の最寄駅で降りる奥さんを見送るころにはモヤモヤが一層モヤモヤした状態で、しかも僕ひとりのモヤモヤを奥さんにまでお裾分けするかたちで、プツリと取り残されてしまった。朝からこのスッキリしない気持ちをどうしてくれる。恨みがましいまなざしを送りながら奥さんはひらひらと手を振って電車を降りていった。さすがに責任というか申し訳なさを感じたのでひとり残った車内で書いている。


僕のモヤモヤは、生徒根性という問題をどうすればいいだろうというところから始まっているようだった。僕にとって生徒根性とは、正解は誰かが教えてくれる、という安易な思い込み、そこから派生した、納得できない正答は茶化してもいい、というような、判断を他人にすべて任せておきながら自分の都合だけはいけしゃあしゃあと主張してくるような幼稚さのことだった。僕はこの生徒根性を、ゴミ出しのルールを守れないバカにも、そのバカに対して「誰かが必ず見ています」と諭すほうにも、見出す。まず始まりはこうだった。


だから僕はバカとバカの戦いの不毛さを指摘し、もっとこう、ゴミ出しすら守れないようなバカにどうにか市民意識というか公共性みたいなものを、ふるまいのうえにおいてだけでもインストールする方法はないものか。あるとするならば「見られている」「叱られる」みたいな幼稚な抑止力ではたぶんなくて、でもそれはなんだろう、というような話をした。


奥さんはとにかくルールを守れないバカのためにわざわざこっちがコストを払わなきゃいけないということがもう無理、ということだった。教室でウェイウェイ騒ぐバカのために、ちゃんと授業を受けたい人たちのちゃんと授業を受けるという機会が損なわれることへの憤り。それを守るためにはバカにも伝わるように伝えなければいけないというような、バカのために生じた事態の収拾を、バカによって損なわれた側が担わなければいけない理不尽さへの憤り。だからこうしてバカにどうしたらゴミ出しのルールは守らなきゃダメということをわからせることができるだろうとモヤモヤ考えさせられているいまこの状況も無理。あなたの「ルールを守れない側も、それをお気持ちで咎める側も、どっちもどっち」というスタンスも、バカに伝わる言葉で話せないことを嘲笑するような態度も嫌とのことで、それはとても納得のできることだった。というか僕の生徒根性への問題意識も似たような憤りから起こっているはずだった。しかし僕は奥さんにうまく応答できないまま奥さんは電車を降りた。


僕は多分うまく伝えられなかったが、ルールを守れば守るほど得をして、破れば破るだけ損をするような仕組みを作っていくべきで、自分勝手にルールを破った人ではなく、破られた側だけが嫌な思いをする現状ってどうにかならないのかね、というようなことだった。

けれども奥さんには、破られてしまうルールに脆弱性があるかぎり、そこをついてくるバカにも一理ある、という主張に聞こえたかもしれない。


奥さんと見解の一致を得たのはそもそもルール遵守の根拠として「自分のされて嫌なことはしない」「叱られるからやらない」みたいなお気持ちを持ってきてしまうのはめちゃ悪手というところだった。これは結局ルールというもの、公共への意識を持たないままに、自分の快不快原理から一歩も出ないままに話が進められてしまうからだ。つまり、俺たちはウェイウェイして楽しい、授業はくだらない、だからウェイウェイする、という論法の入り込む余地を与えてしまう。僕はゴミ出しできないバカに「見ています」と忠告するのは、同じく悪手であると言った。バカにバカの論理でバカを諭してもこちらがバカになるだけだ。この考えが、バカに伝わる言葉で話せないことを嘲笑するように聞こえたかもしれない。


僕はバカの味方でも、バカの論理に一定の理解を示したいわけでもない。どうしたら徹底的にバカを殲滅できるかを考えている。そのためには、「見てるぞ」「叱られるぞ」というバカの言葉で対症療法的な抑止ではダメだ、それではむしろバカを増やしていくことになると憂えている。そして僕は諸悪の根源は、生徒根性にあるとにらんでいる。


ルールは作り作りかえられていくものだ。先生が作って生徒が守ったり破ったりする、それを先生が保守管理する、という構図では、おそらく何も変わらない。生徒も先生もいないのだから。生徒を作ってはいけない。椅子に踏ん反り返って「さあ、教えてもらおうじゃないか」というお客様根性を増長させてはいけない。自分で考えろ。感じてないで考えろ。しかしこのままでは、成熟した市民社会というユートピアと、何も変わらない。


じゃあどうすればいいのか。

どうすれば、他人の生活に全く頓着せずに、自分の快不快だけを基準にしてふるまえるバカではなく、他人のことを想像してなるべく多くの人が気持ち良く過ごせるように思いやれる人たちが窮屈な思いをする、このクソったれな現状をぶち壊せるのだろう。

どうやったらルールを守れば守るほど得をして、破れば破るだけ損をするような仕組みを作っていくことができるのか。 

それは結局わからないままなんだけど。