2019.11.05

台風も多すぎ、湿気も高すぎた10月にもちろん調子を崩し、ぐっと冷え込んでくることも多くなったこのタイミングで夫婦そろって鬱々としている。「季節性うつ」で検索するとこの時期のものは甘いものを食べすぎたり過剰に寝てしまったりするといった症状が主、と出てきて昨晩は帰宅早々二時間くらい昏々と眠り、今朝はドーナツをふたつも食べた僕なんかはハッとすることになる。思い出したら腹が減ってきた。二人そろって調子を崩すというのは珍しくないようで珍しく、だいたいどちらかが沈んでいるときはもう一方が奮起し引き上げ、引き上げたほうが反動で沈んでいきまたもう一方が奮起し引き上げ、というサイクルがあるのだけどこれでいくと二人ともが文句なく元気いっぱいな瞬間ってほとんどないのではないだろうかと心配になるが大体その通りで、だからこそ二人で元気いっぱいでいられるときが嬉しくて仕方がない。いまのように二人ともギリギリ実体を保っている程度で実存としてはほとんど「いない」に等しいようだと、奥さんといても奥さんが「いない」し、奥さんといる僕自身も「いない」ので、奥さんと一緒に「いる」時間が足りなくなってますます体調が悪くなる。家で奥さんと会えるはずなのにお互いが、あるいはどちらかが「いない」。虚弱な心身だからこそ、支え合って暮らしていこうと寄り添ってきたのだけど、いまは虚弱な心身がうらめしい。もっと健康に、十全に、奥さんと一緒にいたい……


あまりにも調子が悪くて泣き言の一つや二つといわず百でも千でも言わせろという気になって、言えばいいのでこうして書いてきたのだけど、どうしてこう泣き言というものはどことなくユーモラスな雰囲気をまとってしまうのか。『ジョーカー』を観たときも思ったが、ある出来事が悲劇か喜劇かという区別は、じつはその出来事そのものにあるのでなく、その出来事に主観的に関わるか客観的に判断するかという、出来事との距離によって決まるのだというような話なのかもしれない。悲惨さというのは笑える。そこに希望が残っていなければ。『ジョーカー』を笑えなかったということは、僕たちはあそこにまだ何かしらの希望を見出そうとしていたということだ。じっさい僕はこの映画を観てむしろ元気が出た。鬱屈とした10代に観た『タクシードライバー』になぜか昂ってしまったように。久しぶりに、自分はこの社会において不適格なのだということを突きつけられ、不遜に微笑みかけられたような気分になる映画だった。しかも、そういう据わりのいい結論に落ち着くことも許さずに、あらゆる解釈を煙に巻くような映画でもあった。明らかな80年代的アウトローへのフェティッシュと、安いカタルシスに帰着しない据わりの悪さとの同居にこそ、ジョーカー的だった。安易に「救いがない」だの「あのピエロたちのなかに俺がいる」だののたまうことは、トラヴィスの愚行に拍手喝采をしたという『タクシードライバー』の観客たちと変わらないことになる。この『タクシードライバー』の封切り時のエピソードを思い出すと、受け手が絶望的にダサかったのは今に限らず昔からそうなのだとすこしだけ冷静になれるのだけど、ほんとにそんな逸話あったっけと検索してみると何も引っ掛からないのでこれは僕の妄想かもしれない。


奥さんが会社の同僚に結婚生活の話をしたときに「毎日帰ると推しがいる生活」というような表現をしたら同僚に心配そうに「それ……妄想じゃないですか?」と訊かれたという話がとても好きだ。僕も最近知り合った人に「noteの日記を読んでましたがそこで出てくる奥さんってもしかしたらフィクションなのかなって思ってました」と左手薬指を指して言われたことがある。お互いにお互いの実在を疑われる夫婦。こうしてどうでもいいブログを書き出したそもそものきっかけは奥さんや僕が「いない」ことであったが、本当に不在なのかもしれない。僕たちはほんとうはいないのかもしれない。すべては妄想なのかもしれない。『アンダーカレント』という漫画が好きだったことを思い出す。物理的に近い距離にいて、似たようなものを食べて体臭まで似てきたとしても、他者と自分とを同一視することはできない。僕が奥さんを余すところなく理解することはないし、奥さんが僕のような感想を『ジョーカー』に抱くこともないだろう。このように、「ほんとう」などと言い出すと大抵のものはチンケな妄想に堕してしまうと僕は思っている。けさ「あなたが本当に住みたい家はどんな家ですか?」みたいな広告を見て考えたことだ。トゥルースとかどうでもいいからこのクソみたいな感情を気持ちよくしてくれ、そんな風潮を表す言葉がクリシェとなってしまったいま、「ほんとう」などと軽率に書き表すことが帯びてしまうものにもうすこし敏感になったらよろしいのにな、と思う。「真実」はもう取り戻せないとして、さっさと「純粋」が貶められてくれないかな、とさいきんは考えている。虚実、軽重、よしあし、なんでも、二極どちらかではなく混じり合った中間こそを考えろというスタンスは、もっともっと流行ったほうがいい。二極のどちらかだけに決め込んでしまうような知性の後退に与してはいけない。ただ、体調だけはいいほうがいいに決まっている。