2019.12.10

富士日記』とカーヴァーを読んでいて、簡素であることのすごみを思い知る。自分はこうは書けない。どうしても無駄口の多いものになってしまう。むだなものが好きだからだ。夏葉社の仕事が好きなのも、無駄口をたたかず着々と具体的なことをひとつずつひとつずつ積み重ねていく、そういう手つきが伝わってくるからだが、自分はこういう仕事はできない。抽象的な屁理屈をもてあそぶのも好きだからだ。とはいえ、具体的で簡素であることに、いつだって憧れている。


それから『クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書』。今年の春ごろに買ってすぐ、自分が読んだことのある本の箇所だけつまみ読みして、そのままになっていた。それからは毎月の『H.A.Bノ冊子』を楽しみにしていたが、そろそろ通読してみようと思いリュックに入れておいたのだった。一気に読むと読み物としても面白く、ずいずい読む。それは一貫したアティチュードがそこにあるからだ。パンクスとしての読書。会社員として、労働者として読書に溺れるというのは、どうあってもどこか社会不適応な部分がある。きょうも会社の休憩室で、イヤホンを耳に突っ込んでCRASS で周りのお喋りをシャットアウトして本を読む。パンク的読書があるのではなく、すべての読書はパンクたりうる、要は読む側の態度が問われている、そんなことを思う。自分自身をも常に疑い作り替えていくこと。読むというのは僕はそういうことのようだった。一冊の本を経る前の自分と、なにひとつ差異を見出せないとしたら嘘だ。かといって、あっさりガラリと変わってしまったとしても嘘だ。変化は劇的なものではなく、地道で地味で一見退屈なものだと思う。


昨日会った友人が、いまどきブログを書いている人は希少というかそれだけである程度文章を書くことになにかを持っているような気がする、というようなことを言っていて、確かになあと思う。Twitter やnote は、書くことよりも読まれることに比重があるように思えてきてすこしうるさい。いまはただ読んでただ書きたかった。それでもせっかくだったら読まれておきたいというか、こうして人目につくことはあるはずの場所に書いてしまうのはどういうことなんだろうかと思う。でもそれは当然のことでもあって、言葉が伝達の道具であるならば、多寡や効果はともかくとして誰かに届けることを想定しないほうが不自然に思える。今の僕はそのように考えている。