2019.12.18

洗面台をぴかぴかに磨く奥さんの後ろに立って、『2666』を読み聞かせていた。


で、あんたは誰で、どうやってここまでやってきたんだ? とアマルフィターノは訊いた。そんなことを説明しても意味はない、と声は答えた。意味はないだって? とアマルフィターノは言い、声をひそめたまま蚊のように笑った。意味はない、と声は言った。ひとつ訊いていいかな、とアマルフィターノは言った。訊くがいい、と声は言った。本当にあんたは僕の祖父の亡霊なのか? 何を言い出すのかと思えばそんなことか、と声は言った。違うに決まってるだろう、私はお前の父親の霊魂だ。お前のじいさんの霊魂はお前のことなど覚えていない。だが私はお前の父親だ、決してお前のことを忘れない。分かったか? ああ、とアマルフィターノは言った。私を恐れる必要などないことが分かったか? ああ、とアマルフィターノは言った。何か役に立つことをしなさい、それからドアと窓にちゃんと鍵が掛かっているか確かめてから寝るように。役に立つこととはたとえばどんな? とアマルフィターノは訊いた。たとえば皿洗いをするのはどうだ? と声は言った。(…)

ボラーニョ『2666』野谷文昭・内田兆史・久野量一訳(白水社)  p.212


くふふ、と聞いていた奥さんはアハハ、と笑い、まともだ、声がまともなこと言ってる、と言ううちに洗面台は真っ白に磨き上げられ、白熱灯を反射して眩しいくらいだった。役に立つこと、それはたとえば洗面台を磨きあげること。


今朝は濃霧で窓から見える景色がどんどんなくなって、しまいには白一色になった。階下に降りると視界は開けていて、霧は高いところにできるのだと知った。このあたりの海抜は0メートルだった。もちろん電車は遅れて、二〇分ほど遅れて会社に着く。週末にかけてどんどん楽しい予定が詰まっており、ここ数日はそのための溜めというか助走期間、みたいな気分があるらしく、それが非常によくないみたいだった。パパラギは船に乗ったそばから目的地のことを考える。それは船に乗っている間の風景を全く感じないことと同義だった。道行きを楽しむこと。いま足りていないのはそれだがいったい何を楽しめばいいのだ? そう思いぶぜんとした表情で仕事を進める、進まない。くたびれた。


最近の気分の塞ぎ方は、日記本の増刷分の刷り上がりの出来が不安というのがなにより大きいと、ここ数日ずっと思ってきたし言葉にしてきたが、もしかするとだいぶ違うらしい。増刷に伴って営業活動というか、あの本屋にも声をかけてみようかな、とメールの文面や提案書を練っているときの、そわそわした気持ちにこそ、不安が潜んでいるのではないか。基本的には嬉しい楽しいそわそわだからこそ、その嬉しさや楽しさが失敗するかもしれないという不安がセットなのではないか、それこそが今の僕の気持ちを落ち込ませているのではないか。つまりは、僕は今、久しぶりに友だちを作りたい、仲間に入れてほしい、と欲しているのではないか。そんなふうに考え直している。

友だちを作りたい、仲間に入れてほしい。僕は幼稚園入園以来、じょうずに友だちが作れない。屈託なく仲間に入れてほしいと言えない。だからなるべく一人で楽しくやっていけるように工夫を重ねてきた。あのころの、少し低い孤高を一人で探求していた時に感じていた充足感と裏腹のさみしさに、いままた触れている。もう大人なので、へんな自意識の屈託もなく、「本を作ったのですが、どうですか」と伝えることはできる。けれども、伝えた後のお返事を、僕はこれまでちゃんと聴いてこなかった。いまだったら聴けるのだろうか。わからない。だからこそ、不安みたいだった。そうか、僕は今、友だちを作ろうとしているのか。それは、心細いだろうな、と一人でも十分楽しいとつよがりとも思わずに思い続けていた子供のころの記憶が、なんとなく書き換えられていくような気持ちになった、この歳になってようやく、友だちが欲しいという気持ちを持つことを自分に許せたみたいだよ、というような。