2019.12.25

『リングフィット アドベンチャー』二回目を終えて、昨晩はぐっすり寝た。同居人特製のクリスマスケーキのスポンジに染み込んだラム酒とグリューワインのせいか、夜はもうどろどろに眠かった。病み上がりなうえ、運動とお風呂で結構も促進されたところに微量のアルコールで仕上がってしまったようだった。それで今朝も寒かったし、寝坊した。


きのうで半分ほど読み進めていた『彼岸の図書館』を行きの電車でほとんど読む。もうそろそろ終えてしまいそうで、こういう速い読書は久しぶりだと思う。全体を通じて自分たちのつくった『ZINE アカミミ』と通じる気分があって、だからこそ差異が際立って面白く読んでいる。「優しさ問題」という題のコラムがとてもいい。

 

生きづらさや弱さに向かい合うときには、支えられる側も支える側も、お互いが感情のある人間であるという認識を持ち、「正しさ」より「楽チンさ」をものさしに落としどころを探せたらいいんじゃないかな、と思っています。

青木真兵・海青子『彼岸の図書館』(夕書房) p.187


人間を人間扱いすることの難しさと、難しくしてしまっている仕組みそのものへの違和感を大事にしたいよね、ということをZINEを編んでいる時期に奥さんとよく話していた。これはかなり基本的なスタンスとして定着しているというかたぶん昔からそうだった。僕は何を読んでも自分の生活を連想する。生活から遠ければ遠いほど、読むスピードは遅く、連想や脱線はおおきく迂回してから自分へと返ってくる。この本はストレートに投げ込まれてくる、だからこそ自分にとってあさっての方向への暴投と、うんうんそうだよねとまっすぐに腑に落ちる言葉とがはっきりとしている。暴投のほうに目を向ければ、もっと遠回りして読めそうではあった。けれども今はわかるわかるというような読み方に引っ張られているようで、果たしてこの安易な「共感」は、他者を一個の人間として対峙する、十全に敬意を払った態度だろうか、などと思う。わかるわかる、という本を読むたび『公園へ行かないか? 火曜日に』を思い出す。昨晩NUMABOOKS から滝口悠生アイオワ日記が届いていた。とても楽しみで、いつ読みだそうかと決めあぐねている。

 

出典は忘れたが、前にどこかでみた記事で、いわゆる「ゴミ屋敷」の住人にインタビューして、よくよく聞いてみたら、最初のきっかけは、ゴミの分別の仕方が悪いと近所の人に指摘されたことで、徐々にゴミを出すことができなくなっていった、ということだった、というものがあった。


この感じ、すごく分かる気がする。たとえば、時々、メールの返事が書けない病が発症する。来たメールを滞りなく返せている時はあまり問題ないのだが、ちょっとした理由があって後回しにせざるを得なくなると、危ない第一歩だ。そういう些細なことが、二つ三つ重なると、「そっちへの通路」が塞がれてしまうような感じが生じて、返事を書く困難度がどんどん上がっていく。そういう時は努力して(なぜか理由の分からない強い抵抗圧力が働くのだ)、なんとか力を振りしぼって、三、四日遅れくらいの範囲で返事を返せればなんとかなるが、時々、その「理由の分からない抵抗圧力」を振り切れなくて、どんどん遅れてしまい、遅れれば遅れるほどに、返事を返さなければいけないというプレッシャーと、返事を書くことに対する謎の抵抗圧力がどちらも強くなって、本当にまったくどうしようもなくなるということが起こる。心の負担が重くなればなるほど、行動のフリーズは解けにくい。

古谷利裕「偽日記」 https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/2019/12/13/000000


師走は会社の作業も遊びのタスクも忙しく、「偽日記」の些細な躓きから修復不可能なレベルでゴミが溜まっていくまではすぐなのだという実感がよく分かる。ふとした瞬間にぜんぶダメになりそうな感じは常にある。フリーズ一歩手前で、自分に、楽しいね、嬉しいね、大丈夫だね、と言い聞かせてやらないと、もう一歩も動けないかもしれないと思う。


気圧低下と暖房とでのぼせというか火照りがひどく、目がしぱしぱして手が微かにふるえるようだった。鎮痛剤も漢方も切らしてしまった。