2019.12.26

Title に行くときは西荻窪のウレシカからはしごすることが多く、荻窪駅からの道のりに自信がないことに北口を出たところで気がついた。14時ごろに、と連絡していたが、Twitter で二階の古本市の写真を見ると庄野潤三小島信夫の書影があって、先にちょっと見ておこうとだいぶ早めに着いた。結局井上究一郎プルースト論や、弟が昔面白がっていた田中小実昌や、鶴見俊輔長田弘の旅についての対談本など、面白そうな本がたくさんあって、気がついたらしこたま抱え込んでいた。

 

レジでお会計していただき、納品に来た旨お伝えする。こういう時まごまごせずに軽妙に話すというのができない。仕事だとできるのだが、相手にきちんと敬意を持って接しようとするとむしろ引っ込み思案が表出し耳まで真っ赤にしながら結局何も伝えられないみたいな体たらくになる。

奥のカフェで念願のフレンチトーストをいただく。もちろんアイスの載ったやつだ。出来上がりを待つあいださっそく『カント節』を始めて、のっけから最高だった。読書態度がまるで僕のようだと思った。だんだんニヤニヤしだした。

 

モノ真似をしてるようなところもあるかも しれない。たとえば、スピノザの、「エチカ」を畠中尚志先生の訳で読んで、そのしゃべりかたを真似ようとするのだ。もっとも、いくらかモノ真似ができるとウメボレられれば、ひろいもので、なかなかそうはいかない。

また、毎日、えっちらおっちら読んで、時間をかければ、モノ真似ができるってわけではなく、いつか、ひょいと、モノ真似ができるようになっている。これは、モノ真似のきっかけをつかむというようなことではなく、あれ、おれはモノ真似をやってるよ、とうれしくなり、ところが、そのあとさっぱりモノ真似ができず、まえのもカンちがいだったんじゃないか、とがっかりするといったぐあいだ。

引用は、その本のモノ真似がうまい人がやればいいだろうが、モノ真似ができない者が、そこいらから、かってにやぶりとってくると、おかしなことになる。また、ホンモノを知らない者に、モノ真似をきかせても、なんにもならない。つまりは、「エチカ」をちゃんと読んでる相手以外には、引用を示しても意味ないってことになる。屁理屈だ、とジョーシキは言いそうだが、ジョーシャは毎日をすごしていくためのもので、毎日をすごしていくために、本を読むのではない。だったら、なんのために本を読むのか、とジョーシキはたずねるかもしれないけど、本を読みたいから読む、なんのためなんてカンケイない。しかし、どうして、本が読みたいのか?

田中小実昌『カント節』(福武書店) p.20-21

 

好みからすると最後の一文が余計だったが、ここで書かれていることは僕の日記のスタンスとほとんど一緒じゃないかと思う。本を読みたいから読む、引用したいからする。毎日本を読むが、それは毎日をすごしていくためではない。なんのためとかじゃなく、とにかく読んでいる。

 

丸ノ内線で赤坂にも寄り、日記本フェアの納品を行う。ここでも、紀伊国屋の賞の発表もあったしなと祝福の気持ちもあって荒木優太を手に取って、ついでにずっと気になっていた高野文子が表紙の斉藤倫も買うことにした。書店に本を預けに行って、帰り道の方がずっしりとした紙袋を持っているのは楽しかった。