2020.01.02

元旦に見たネコメンタリーを思い出している。ますむらひろしが庭で水撒きをしている、ホースの先には可変式のなんか器具がついてる。それで水が細かく霧状に広がったり、一直線に勢いよく放られたりするそれらを上下左右に細かく振りながら撒いていく。もちろん保坂和志の『カンバセイション・ピース』の水撒きのシーンを想起させるその情景は、驚くほど鮮やかにホースを魔法の杖や小銃に見立てて水を撒いた感覚を引き出してきた。子供時代、水撒きなんて一ニ回しかしていないにも関わらず、ホースから伝わる微かな振動や、濡れたところから緑が濃くなっていって、芝のミミズの匂いが立ってくる感じを鮮やかに思い出す、いや、テレビを通して、実際に水を撒いているのと同じような喜びを感じていることに気がつく。日差しと土が肌に染み込んでいって、毛穴がふさがるようだった。

水撒きのシーンのこの感覚は、『デッドライン』の荘子が魚に「なる」ことと通じる。自分とそれ以外の境界というのは、あるからこそふと何でもなくなったりしかねない、そういうことを再確認するようで、ますむらひろしの家を通過していった何匹の猫の、猫自体というよりその通過に祖父母の家を連想したのも大きい。

 

今年は詩歌を読めるようになりたいと思い、今日はリュックに『起こさないでください』と『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』を詰めた。短歌は難しい、詩歌の人は、散文が上手だと歌自体は面白くないことが多いと弟が話していたのを思い出す。散文のような歌だったら僕は散文の方が楽しく読める。大喜利でもバズツイートでもなく、ただ詩や歌が読みたいと思うとき、どんなものであれば僕は楽しく読めるのか。隣に座る奥さんに、あなたの頬をかじってもいい? パンのようだから、と尋ねる。よくはなさそうだった。