2020.01.07

今日から明日にかけて気圧が急降下する。年末からずっとどちらか片方の鼻が詰まっていて、それでなくとも呼吸が浅いのに、低気圧で余計に酸欠っぽく、うっすらと頭痛と吐き気があり続ける。行きの電車では『『罪と罰』を読まない』を始めて、へ、へ、へ! と楽しく読む。ちなみに僕はドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』しか読んでいない。家に帰ったら『2666』を再開したい、とはいえ家を空けていたというかボラーニョを放置したのは三日に過ぎず、再開するというほど大げさなことでもない。これまで一日に30頁位のペースで読んでいて、だから順当に行けば下旬の読書会には間に合うだろうがたった三日空いただけでなんとなく焦りだすから面白い。事務所について頭痛薬のストックが切れていることに気がつく。困り果てる。僕が今日会社で生産したのはデスクの上のティッシュの山くらいだった。それもすぐにゴミ箱行きだ。『やがて忘れる過程の途中』がもったいなくて読み進められない。このままfuzkue まで楽しみに取っておくつもりだろうか。


きのうくらいからSNSの動きが鈍い。仕事始めで辛い思いをしている人が多いのだろうか。辛い時こそ無為にSNSを眺めそうなものだが、たしかに眺めるだけで反応や投稿をしようという気は僕にもない気がする。先週の名古屋でひとまず書店巡りは一段落したので、日記本のエゴサーチも宣伝もやや落ち着き、いまは『ZINE アカミミ』の、ひいては家のことをまた考え出している。日記本と家のこととを、どこまで結び付けていいものか。こういう日にものを考えると全部めんどくさくなってくる。

 

「読む」は終わらない。じゃあ、いつ、「読む」ははじまるのか。私はこれまで、「本を開き、最初の一文字を目にしたとき」だと、漠然と考えてきました。しかし、そうではないのだと、今回の試みに取り組んでみて、思い知らされた。

岸本佐知子/三浦しおん/吉田篤弘吉田浩美『『罪と罰』を読まない』(文藝春秋) p.289


『『罪と罰』を読まない』を読み終える。一日で読んでしまう本は久しぶりな気がする。実はこの本、もう三年以上読まないままで「読んで」きた本だった。とうとう読んでしまったなあ、とやっぱりピエール・バイヤールが読み返したくなる。そう思って手遊びで検索すると千葉雅也が書評を書いていた。面白く読む。

 

そうだとしても僕は、グレーなことをグレーで「文句あるか」と堂々と言い張ることの、無謀な爽快感に惹きつけられてやまない。グレーなものは、通常息を潜めてはいても、ときにその姿をふてぶてしく見せつけるのでなければならないと、僕は思うのだ。ある不完全性が、姿を誇示することで呼び寄せてしまう攻撃をまったく意に介さず、その圧倒的な、恫喝的と言ってもいい「これでいいのだ」に居直ることへの肯定が、おそらく人間の文明には必要不可欠なのである。

千葉雅也「不完全性の権威」 http://www.webchikuma.jp/articles/-/357