2020.02.02

国家的母性とはふるさとであり、自然であり、伝統であり、つまり国の精神が実体化したものである。したがってお国のために死んで無になるということは、自我の目覚めによって母の抱擁から離れた子供が再び母の胸に戻って、永遠に一体化するということだ。この美しいイメージが さまざまなメディアを通じて流布されたことで、子供の命を差し出すことが美化されたのだろう。そしてまた、多くの若者たちも「護国の鬼」となって母の胸に還ることを信じて死んでいった。


「死ぬとき、『天皇陛下万歳」という兵士はいなかった。みんな『お母さん」と言って死んでいったんだよ」


出征した男性の証言として、しばしば目にするこのような言葉も、「国家的母性」を読んだあとだと、空恐ろしいような気になる。

自我を捨てて子供に尽くす「母」は美しい。だからこそ恐ろしい。戦後、愛国心には警戒が払われるようになったが、母性幻想は無批判のまま生き延び続けて少子化を招いている。母性幻想に取り巻かれる現代の一個人が再びファシズムに巻き込まれないためにできることは、自我や自意識がまったく美しくなく、みっともなくて目が当てられないものだとしても、そういうものだとして面白がって愛し、他人のそれもまた愛することではないだろうか。私たちは皆それぞれに自我のある個人で、黙るのでもなく黙らせるのではなくぶつかり合いながら、どうにか調整して生きるしかないのだ。「母親だから」と母性幻想の持ち主に自己犠牲を求められたら、ふてぶてしく突っぱねて、女や母親にも自我があることに慣れていただこう。それが世界平和への道だと考える次第だ。

堀越英美『不道徳お母さん講座 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』(河出書房新社) p.178-179


『不道徳お母さん講座』読み終え、吉田健一の「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」は本当によくできたサマリーだなあと思う。要約してしまうと僕の生活スタンスはこれに尽きてしまうのではないか、というおそれがある。生活が実際の日々の必要や面倒から離れて観念とされてしまっては「母」と同じことになる。個人個人の具体的な生活は、観念には回収しきれないし、してはおぞましい。生活は、生活のためになら死ねる、というものになってはダメだ。生活は、抽象化された理想ではなく、具体的な執着の対象でなければならない。


デートの前に駅ビルの本屋で能町みね子『結婚の奴』を買って、移動中に読んでいた。そこでも、他人と暮らすことのメリットは、面倒や用事を増やすことにこそあるよな、と思う。増やすというのはちょっと違うかもしれない。一人であっても面倒や用事はあるにはあるのだが、無視することもできる。どうせ困るのも自分だけなのだから困らなければいい、要は気の持ちようだ、とうっちゃれる。生活の構成メンバーが複数いると、面倒や用事を処理しなければいけない必要性が高まる。それで一人じゃ重すぎる腰も上げざるをえなくなる。他人と暮らす一番の効用はこれだ。日々の面倒や用事に取りかかる必要が高まること。

 

このへんの話は秋に作った『ZINE アカミミ』の創刊号にまとめているので、自分の中では一定の所見ができあがっている。ただ、「家族」をテーマとしたZINEの特集では「家族」をバラし相対化して不思議がることに集中したぶん、「恋愛」を深掘りすることはなかったな、と『結婚の奴』を読んでいて思う。恋愛というものとの距離感に関して、近いものを感じるからこそ、もっとZINEで恋愛を論じてもよかったかも、とも思うし、そもそも「恋愛」という価値観からさっさと降りたかったからこそ、その手段として結婚があったような感覚も僕にはあって、だから別に論じる必要はなかったとも思っている。

「恋愛」のようで、「恋愛」に回収しきれない、他人との関係の予感、構築、メンテ、終わり。それが『結婚の奴』の中心にいつもあって、だからこれは「イエ」や「家族」の話でもありながらやっぱり「恋愛」についての本であり、そこが僕はわかるからこそわからない部分で、面白い。