2020.02.03

僕は能町みね子は『お家賃ですけど』が大好きで、だから『結婚の奴』はその続編のようにも読めて嬉しかった。恋愛と性愛が不可分のものであるような価値観への違和を僕はずっと感じていて、だから嫉妬や理想の押し付けや過度な自己投影といった恋愛の専売特許のように描かれがちなものもひっくるめてあるような、それでも恋愛とは名指せなさそうな濃密な人間関係を恋愛の近似として描くさまに、うんうん、と読んでいった。恋愛がいい人は勝手にすればいいし、しなくてもいい人はしなくていい。恋愛でなくとも、深かったり、濃かったり、みっともないような親密さを築き上げることは、可能だ。そうして終えた。


結婚という奴を玩具にして遊ぶことで、能町みね子が解体しようとしたのは、「イエ」でも「家族」でもなくて、やっぱり「恋愛」だった。恋愛こそが人間にとって至上の関係とでもいうような価値観に対して、いや、ほかにも色々あるでしょ、と言うことだった。僕はこれにホッとするようで、僕自身も、実はイエだとか家族だとかいう前に、恋愛教(恋愛こそが人生における普遍的かつ至上の体験であるという宗教)みたいな価値観にこそ傷つけられてきたのかもしれないな、と思った。昨日分の日記に書いた、読みかけのころの感想から、あっさりと手のひらを反すようで自分でも面白いのだけど、そう思った。

恋愛と性愛と戸籍制度と生活の共同というのは、ぜんぶ分けて考えてもいいというか、ごっちゃにして考えるほうが実はおかしいようなことだと僕は思っていて、だからZINEをつくるときには、僕はもう恋愛を過去に乗り越えた呪いとして問題ともしなかったけれど、もしかしたら生活の共同を考えるときに問い直すべきは、「家族」だけじゃ片手落ちで、「恋愛」も一緒に問い直しといたほうがよかったかもなあ、というふうに思えてきた。共に暮らすということには、イエだけでなく恋愛もべったりと裏地のようにくっついているのかもしれない。でも、個人的にここはもう問題としないところでもあるから、やっぱり僕がやっても仕方がない気もしている。どうなんだろう。


今度は『お嬢さん放浪記』。香山哲のブックフェアで、いちばん気になった本。

 

一体どうしたらよいだろう──私はさし当り少し散歩することにきめた。歩いているうちにはよい考えが浮かぶかもしれないし、ひょっとしたら親切な在留邦人にぶつかるかもしれないと考えたのである。

犬養道子『お嬢さん放浪記』(角川文庫) p.55


こういう楽観、とりあえず歩き出そう、試しに手を動かしてみようという健全な楽観が気持ちがいい。観念的なゲームの沼に嵌りそうになった時こそ、とりあえず何か作ってみる、試しに言葉を使って書いたり喋ったりしてみる、生活の具体的な面倒や用事に取りかかる、そういうことがやっぱり大事。

昨日と今日のぶんの日記は、いつも以上に悪文で、読みづらいし論旨も掴みづらい。そもそも自分で自分が考えていることをちっとも書けている感じがしない。つまりこれまで考えもしなかったようなことや、整理できていないのを見ないで済ませてきたことを、書こうとしている。