2020.02.11

相手だってはじめからそんなことは期待していないわけだが、私はそのとき泊まっていけよと言えないことを背信行為のように感じた。私がそう感じていたことをそいつは察して、「いや、いいんだ、いいんだ。」「気にするな。いいよ、いいよ。」と何度も何度も私に言ったんだから、そいつは察したのでなく私は泊まっていけよと言えないことを口に出したということだが背信行為という言葉までは口に出さなかった。一番の理由は家が狭くて、せめてもう一部屋あって客用の布団もちゃんとあればそんなことわけないが、彼と別れてタクシーから家まで五分ぐらいの道を歩いているあいだ、家の狭さやこんな時間に友達突然連れて帰って妻の紗織が不機嫌になるならないの問題でなく、自分も彼ももう学生時代のように人恋しくないんだということに気がついた。しかし同時に、私は学生時代の人恋しくてしょうがなかった気持ちを体のすぐちかくにも感じてもいた。

保坂和志『未明の闘争』(講談社文庫)p.162


自分も彼ももう学生時代のように人恋しくないんだということに気がついた。しかし同時に、私は学生時代の人恋しくてしょうがなかった気持ちを体のすぐちかくにも感じてもいた。

 

ちょうど私はカルペンティエールの『春の祭典』の主人公が恋に落ちたページを読んでいたときに、二十五年前恋人の部屋に二人でいたときがフラッシュバックするようにありありと浮かんできたばかりでもあり、誰かを好きになる瞬間やそれにつづく絶頂期がいまその状態にあるかのように思い出されるなら、学生時代やその後の二十代の頃の人恋しくてしょうがなかった気持ちだっていまの体に襲ってくることがあるんだと知ったのだった。死んだチャーちゃんが元気に遊んでいた姿や死ぬ前に病気で苦しんでいた姿が突然リアルに浮かんできて、チャーちゃんを体のすぐちかくに感じるように、昔の恋愛の心の状態をすぐちかくに感じるのだし、二十代の頃の人恋しくてしょうがなかった頃の心の状態だってすぐちかくに感じることがある。

同上 p.163


僕は『未明の闘争』は普段のあっちこっちにどんどん気が散る自分の頭のなかを全部文字にしたような錯覚があり、小田急沿線の町にも横浜にも住んでいたのもあって景色もほとんど自分の記憶のままに思い浮かべるのだから、読んでいてだんだんどこまでが自分の記憶でどこからが書かれたことか判然としないことがある。それでここを読んでいるとき、そうか、僕はもう学生時代のように人恋しくてしょうがないということが確かになくなっている、とそれは読んでいる僕と書いている「私」とをほとんど混濁するようにして僕も気がついた。


この小説を初めてほとんど思い出すように読んだのは2013年で、だからまだ独身だったどころか学生でもあった。ということはまだ横浜にも住んだことがなかったけれど祖父母の家の記憶として横浜の景色はやはりあったのだろう、そういう時期に読んだということで、それから横浜を経て結婚してという今読み返すとより一層記憶を混濁させていくように読むことになる。そこにはかつて梅が丘のアパートや山下公園でこの小説を読んだという記憶がもちろん重なっていて、だから小説の内容そのものが記憶の中にすでにある。当時は30頁も読むと疲れてしまっていたが、今は知っている景色だというのもあってほとんど苦もなく描写を追っていて、記憶のなかよりもうんと速く読んでいる。スピードや量は読書においてなんの意味もないので、ただ今回は苦労もなく速いんだなと思う。読んでいてこれは『ハレルヤ』、これは『カンバセイション・ピース』とほかの小説も思い出す。とにかく何かしらの記憶が喚起されるように読んでいて、僕はそれが保坂和志を読むということだった。とにかく思い出すこと。自ずから思い出されることを思い出すこと。ドストエフスキーとアキちゃんとが寒さにおいて重なり合い混濁するシーン、僕の読書日記はこのシーンをひとつのお手本としているようなところがある。