2020.02.14

きのう休んだからか、気圧が安定しているからか、まさか労働が忙しかったからか、きょうはわりと元気というほどでもないけれど元気がないというわけでもなく、『未明の闘争』は山下公園のところがやっぱり楽しかったが記憶のなかでだいぶ盛られているらしく初めて読んだときのなんだこれは! という感じは薄らいでいる。もういまとなってはこの作品が礎となって多くの小説が書かれたし、ひとつ役割を終えてしまったのかもしれない、とも思う。これは『プレーンソング』や『カンバセイション・ピース』には感じたことがなくて、『未明の闘争』にだけ感じる。この小説だけこれまで一度も読み返されることなくここまで来たのは、読みづらいとかそういう表面的なことではなく、今はもっと先が示されたあとだ、というような意識が自分にはあるのかもしれない。でも初めて読んだときも、最後のほうの猫の一族の歴史が語られるところでウワーッなんだこれ!となったのだから、やっぱり最後まで読んだらウワーッなんだこれ! となるのかもしれない。やっぱり上下巻になるのがよくなくて、こんなもの上巻だけ読んでもどうしようもないのにモノとして途切れているとどうしても途切れる。それか、話があちこちに脱線しながらも読む側が忘れかけたころに平気な顔してもとの話に戻ってくる面白さに、僕はプルーストを読んで慣れてしまったのかもしれない。初めて読んだときはもとの話に戻ってきたことに気がつけないほどに話を追えていなかったのではないか、ただ連綿と続く脱線に身を委ねていたのではないかと思う。今の僕は、あ、この話に戻ってきた、と拡散と収縮の道筋をわりと拾っていけている。このちゃんと読めてしまっている感じが作品を第一印象より小さく感じさせているのではないか。そうであるならばもっといい加減な気持ちで読むべきなのかもしれない。おじさんの長話なんてハイハイハイハイと聞き流すくらいがちょうどいい。


やっぱり『半魚人』が読みたくなって、初読時に古本で買った楳図かずおの短編集を棚から引き抜いて、表紙が怖いから奥のほうに追いやっていて探し出すのに苦労した。こうして書いていてもやっぱり保坂和志を読んでいると、どうしたってその影響下にある文章を書いてしまうことに気がつく。ふだんからかなり影響を受けていると思うが読んでいる最中の引っ張られる具合は保坂和志がほかの作家と比較にならないくらい強い。この文体が引っ張られる感じこそが僕は保坂和志を読むということで、だからやっぱり『未明の闘争』もちゃんと面白がっているということではないか。書かれている内容なんてものすごくどうでもよくて、書かれっぷりだけを楽しんでいる。それはいつもそうなのかもしれない。


昨晩から久しぶりに脈が不安定というか、なんだか変に速かったり、一分間に二回くらいドクンと強く打つことがあって、呼吸が浅くなったり速くなったり逆に深く遅くしすぎる。呼吸の変調が先なのか脈の変調が先なのかはわからないけれど、実感としては脈が気になるから呼吸を意識してしまってうまくいかなくなる。それで息苦しい感じがずっとあって、手の打ちようがいつも分からないまま気がついたときには治っている。あれ、もしかしてこれはおかしいんじゃないか、と気がついたころにはもう治りかけている。それで貧血なんじゃないかと思って職場に常備している鉄分のサプリメントを飲む。こうやって思い出したようにしか摂らないからいつまでたってもカプセルが減らない。