2020.02.15

久しぶりに用事があって三田線に乗る。僕がこれまでに使ったことのあるなかで一番嫌いな路線だ。この沿線に、奥さんへの呼びかけが「奥さん」でなく「ねえ」とか「あのお」であった頃から、役所に紙切れ出した後もしばらく、三年半くらい住んだ。僕らの生活がすばらしく最高であったことは僕らの最高さであって、その町や路線とは何の関係もない。毎朝毎晩、この電車はなんでこんなに辛いんだろう、と消耗しながら通勤していた。きょうもやっぱり嫌な感じだった。この嫌な感じを言語化できることはなかった。おそらく乗車してくる人たちの息遣い、服装、態度から、車両の幅の狭さに至るまで、あらゆる要素が嫌な感じを醸成していた。

それで懐かしく思うのは神保町が定期券内だったことくらいで、ほかはなんでもなくただ嫌な気持ちで用事に向かって、降りた駅はほとんど初めてのつもりだったが通りに出てすぐ思い出すことがあった。同棲をはじめてすぐのころ、放置自転車をシルバー人材センターで修理加工して区民向けに再販するというのがあって、抽選に当たったその自転車の引き渡しがこの駅近くの高架であった。奥さんではなかったころの奥さんはその日が仕事だったので、僕と、奥さんの母とで自転車を受け取りに行った。挨拶がわりに三人でお酒を飲んだことはあったが、二人きりで会うのは初めての、このときは義母ですらない義母と自転車を受け取って、ろくに道も調べないままに南北にいくつもいくつも坂を昇り降りした。それで東武東上線の駅近くのおいしいピザをご馳走になった。そういう場所だった。


きょうも用事が終わるとろくに道も調べないまま縦に移動して、ときわ台まで歩いた。それで本屋イトマイへ行った。路面の扉を開いて階段を登ると左手がカフェスペースで右手が本屋、本屋側のスペースは奥に細長く、棚も本もそこまで多くはない。けれども隣に挿す本がその本である意味というか、タイトルや表向きのジャンルだけでなく、その内容によって関連づけられていることがよくわかる本の並びにははあ、となる棚で、それがわかる程度には知っている本が多かった。それでカフカ高橋源一郎後藤明生か、知ってるけど読んでない本でも買うかとも思ったけれど、知らなかった本をなんとか一冊見つけて買って、オフィスマウンテンの本だった。他人の演技論を読んだらまた芝居を作りたくなるだろうか。それでカフェスペースでプリンとチーズケーキのセットと深煎りのコーヒーをお願いして、高いところが好きなので靴を脱いでロフトのようになっているスペースに落ち着いた。チーズケーキも美味しかったが、固めのプリンはカラメルがかすかに苦く、載せられたクリームも固めで酸味がしっかりしていてたいへん美味しい。カフェスペースの蔵書の方が僕は好みで、ここの本が売り物だったらめちゃくちゃ買った。ボラーニョ もある。小島信夫もある。大島弓子もある。ベケットも旧訳で揃っている。素晴らしいな、と思いながら『未明の闘争』を読む。ちょうど猫のファミリーの歴史が始まるところで、そのまま読み抜けた。この場所で読み終えてよかった。


それで池袋でJRに乗り換えたころtwitter滝口悠生の「長い一日」のことを知り、慌てて駒込で途中下車した。20時32分で、歩いて向かって閉店まで20分しかない。BOOKS 青いカバも初めての訪問だったがTitle の二階の古本市や、本屋博や、おそらく不忍ストリートのブックイベントなんかでも気になって何度か場所を調べたことがあったから、地図も見ずに早足で向かってもちゃんと辿り着いた。それで閉店間際に来たことを後悔した。ものすごくいい。まず海外文学の棚でベケットに目がいく。きっとさっきまでのイトマイの棚が響いていた。ドゥルーズとの『消尽したもの』もある。白水社の短編小説集もある。すこし目線を落とすと『ペドロ・パラモ』の赤い背表紙がある。バートルビー、と思う。しかも安い。ジャン・グルニエの『孤島』はドゥルーズ無人島と関係あるんだっけ、と手に取られ、わかんなかったけれど井上究一郎の訳だったので買うことにする。新刊の棚では早助よう子『ジョン』が手に取られパッと開いたページに呼ばれたのでこれも買う。ベケットは短編小説集だけにする。レジで棚の上に置かれたナウシカも取っていただいて、それも買う。21時を15分くらい過ぎて申し訳なかった。楽しかった。こうして書いていて、面出しされていた妹尾河童のトイレ本を買い忘れたことに気がついたがそれでも想定の倍以上買った。ダウンを着るには暑い日で、ずっしり紙袋を抱えて脱ぐに脱げず、ダバダバ汗を流しながら帰宅。『ジョン』の呼ばれた箇所を同居人に披露していると奥さんも帰ってきて奥さんにも見せる。