2020.03.16

きのうの話。

 

駅のホームで『HiGH & LOW』のゲンジが『勉強の哲学』の帯を書いていることについてしゃべる。なんだか伏線回収された気分。


早稲田の甘露。復活した蒸し物のランチ。僕は大きい肉まんと点心。奥さんはおこわ。案内されたテーブルの背後の本棚にあった『中華オタク用語辞典』と『タイポさんぽ』が面白かった。特に『タイポさんぽ』はうちに欲しい。中国茶はおいしく、きょうはこれから茶器を買いに行こうと決まる。

NENOi に寄る。Twitter で『プルーストを読む生活1』を褒めてくださっていた岸波龍さんの本を見てみたくて。あるお店でしか買えない本というのはいい。作り手とお店との関係性が見えてくるようだから。僕の本もそういうふうに置いてもらえたらいちばんいいなと思っているので、基本的に二回以上訪問して、すっごくいいな、と思った場所にだけ提案をしている。遠方は一度しか行けていないところが多く、でもきっとまた行く。

それで、 『ASK FOR SADNESS』は一冊ごとにデザインの異なる半円型のシールが、タイトルを挟んで円になるようにふたつ手貼りされていて、めちゃくちゃ凝った本だった。ははあ! と嬉しくなって、奥さんは店内の本棚を見て、これはうちにある、これも知ってる! といちいち報告してくれて可愛い。僕はそうだね、と返事をする。『たぷの里』の素晴らしさなどを店主さんともおしゃべりし、そうやって本にまつわるお話が自然にできる雰囲気が丁寧に醸成されていて気持ちがよかった。若林恵のガバナンスのやつとで二冊いただく。


東西線日本橋、コレドで器みる。器は中川政七商店がちょうどいいんじゃないかという仮説。誠品生活内の中国茶専門店で茶器みるも、値段とわくわくとがやや釣り合わなくて、結局いろいろみつつも合羽橋に行ってみることにする。三宝園というお店がよさそうだった。田原町に着いたころからセレクトショップは有限性においてこちらの頭を空っぽにさせてくれるところにこそ価値がある、などと買い物の「ある程度」の判断──意味がない無意味──の重要性についてべらべら喋っていると奥さんはくたびれた。両脇から大量の金物や器が迫ってきて、頭上には横書きの看板が並ぶ。その情報量の多さにぐったりするので合羽橋のアーケードが苦手だと奥さんは分析する。僕は情報の氾濫に滾るのでむしろ饒舌になる。それですでに情報量過多の奥さんに向かって僕は千葉雅也の話を延々と聞かせることになるわけで相性は最悪。

三宝園で中国茶器を見て、色々アドバイスいただき安く適当に済ませる方法を選択。茶碗はお猪口とかでいいしまずは適当にありもので試してみて、だんだん楽しくなってきたら本格的にそろえてみたらいい、というような、よきアドバイスだった。茶海と茶葉だけいただく。ほどよく雑で楽チンな暮らしこそがよかった。

有限性において行為すること、と呟きながら、アーケードを回遊しながら目に留まったコーヒーカップとドリッパーを購入。じわじわと嬉しくなるのでこの「ある程度」の判断は正しかった。


帰ると同居人が買った三段のやつをフル活用してアフターヌーンティーパーティーが準備されていた。三段のやつというのはアフタヌーンティーで使うあの三段のやつだ。同居人が昨晩から作り続けたおいしい焼き菓子の氾濫。買ってきた中国茶をさっそく試す。あまりにも楽しい。


しずかな気持ちになりたくて『はしっこに、馬といる』を読んで食休み。それから滝口悠生のフリーペーパー「長い一日」を三回まで読む。とてもよくて、奥さんにもお勧めするとお手軽なサイズ感なのもあり奥さんも一気に第三回まで楽しく読む。しわ犬だ! と二人で喜ぶ。『ODD ZINE』の犬の話も大好きだった。そこにもしわ犬はいた。


それから『ASK FOR SADNESS』を開く。

‪僕はずっと詩が「わからなく」て、入門書ばかり読んでいたのだけど、本書を読んで、あ、これでいいんだ、というか、僕は詩に対してへんに格好つけすぎていたな、と肩の力が抜けるようだった。映画の予告編を見て妄想を膨らませたり、音楽を聴きながら風景を想起するように、言葉をイメージに解凍していくような読みをすればいいんだ、と。何というか、僕はこれまで詩を文字として読み、言葉としてみていたが、たぶんそうではなく言葉として読み画や音として見たほうが楽しいのかもしれない。さっそく本棚から平出隆の詩集を引き抜いてすこし読む。