2020.03.20

今日からは『暴力の哲学』。僕のファースト酒井隆史で、大学生のころ読んでべらぼうに面白かった記憶がある。『自由論』のあとだと、その副読本としても読めるし、めちゃ読みやすいので楽しい。日夜重りをつけて修行に励んだ後に、いよいよその重りを外した時もはや重力を感じないくらい身軽になっている、というありがちな漫画表現が思い浮かぶほどだ。俺、いま自分が何を読んでいるのかわかる!

 

(…)冷静に考えてみればわかることだが、日本の官僚機構や行政府がヤバいことになっているのは、政治家の政策上の判断の愚かさはあったとしてもそればかりに帰するものでもなく、ましてそこで働く人びとの無能さややる気のなさの帰結でももちろんない。行政府のアップデートを、南太平洋のキリバスのような小国ですらエストニア政府のコンサルティングを受けながら取り組んでいると知れば、それは全世界的な課題と見ることができるわけで、それは、つまるところ長らく国家なるものを支えてきたこれまでの「行政システム」では立ち行かないと、およそ世界のどの国でもみなされているということを意味している。


遡ってみればそのシステムは、19世紀に整備されて世界中に広まった、よくてせいぜい工業社会に最適化されたものであって、工業社会をとうの昔に通り過ぎてデジタル社会に到達した21世紀のわたしたちの暮らしに、そんな昔のシステムが適合的であるわけがない。もちろん、そうなるまでの間にも、行政システムを大きくしてみたり小さくしてみたりと、さまざまな試行錯誤があったわけだが、とはいえ、そうしたアップデートではもはや間に合わないくらいに私たちの暮らしは、古き良き時代(というものがあったとして)から劇的に遠くかけ離れてしまっている。


若林恵「ガバメント・オブ・ザ・リビングデッド──「生きながら人生の墓場に入った」と感じている公務員についてゾンビ映画が教えること」NEXT GENERATION GOVERNMENT 次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方|blkswn paper vol.2


ついでにNENOi でとうとう買った『NEXT GENERATION GOVERNMENT』も持ってきた。いまよりマシなあり方を、行政の側からも考えてみるために。とにかくクソな現状に馴らされないというか、いまよりもマシになることをしぶとく考えていく、そういう態度をやっぱり持っていたくて、そういう態度で作られたものを読みたい。

昨日の奥さんとのおしゃべりでも、『自由論』が20年前に書かれていることの凄さを思いながら、いま20年後を予見できるような思想はありえるだろうか、思想が世界の変容の行方を予見できた時代は終わってしまったのかもしれない、というか、思想だけでは足りなくていまはそこに技術への知見もなくちゃいよいよ立ち向かえないのかもしれない。産業革命以降ずっとそうだったかもしれないけれど、技術のコンテクストの変容のスピードが速すぎて、思想のそれと同時並行でアップデートできてる人がいないというか、ほとんどありえないような気がする。いまこそSFの知性が必要というか、いつまでも士郎正宗に頼ってちゃいけない。士郎正宗を超える知性がもっと世に出てくるべき、というような話をしていた。技術に思想をインストールすること、思想を技術のコンテクストに働かせること、『さよなら未来』が面白かったのはまさにその辺だったのだと思う。

 

公務員は自ら選んで公僕であるのだから安い給料で死ぬまで国民のために働くべきなのである、と思うのは自由だが、そんなことになれば終局的に困ることになるのは自分たちだということを忘れてはいけない。行政府が、かつてはやれていたようには公共サービスを支えきれないのであれば、道筋はおそらくふたつしかなく、ひとつは、みんなでそれを支え合うか、そうでないなら、公共というもの一切合財を失うか、しかない。


もちろんそんなものを失ったところで構わんよという向きもあろうけれど、本誌では、その立場は取らず、むしろ前者の道筋のなかで、いかに健全かつ安全に社会というものを取り回すことができるのか、その淡く儚い可能性を探ることを旨としている。行政府なんかなくなりゃいいと思ってたら、こんなお節介なムックをわざわざつくることもないわけだが、もっと言うと、なくなりゃいいとの考えが、このままほっておくと結構な確率で叶う願いだと思えば、かりに行政府が破綻してなくなったりしたときにでも、それでもまだなんとか人が安全に暮らし得る社会はありうるのかという問いも、このムックをつくる上で漠然と思い浮かべていたものだ。


それをつらつら考えるにあたっての最大の困難は、小さいのか大きいのか、右か左かといった昔ながらの二元論が、そこから抜けださなくてはいけない牢獄として繰り返し立ち現れてくることだった。そのなかでいくら右往左往したところで、果てしない堂々めぐりを繰り返すばかりになってしまうのは、そうした二元化された対立軸それ自体がこれまでのOSを前提としているからで、それどころか、その対立そのものがそのシステムに養われてきたものだと見切ってしまえば、そのなかでやりあっているのがいい加減無益な徒労にしか感じられなくなっている理由も腑に落ちてくる。ネトウヨだパヨクだと罵詈雑言を投げつけても投げつけても、うようよと相手が湧いて出てくるさまは、なるほどこれまたゾンビ退治にそっくりだ。


同上


新自由主義への批判が、あったかどうかも定かではない古き良き時代へのノスタルジーへと回収されてしまい、「分断などなかったネーション」というフィクションへの傾倒と過激化をもたらしてしまった、というのが『自由論』の補章でも指摘されていた。

自由か、ナショナリズムかという二項対立自体が幻想なのだけど、かといって分断をないものとする──かつては「なかった」というのも含め──話法もまた欺瞞だ。分断はいつだってある。かつてはなかったという話法はただ「不可視」であったことと「不在」であることとを混同している点でものすごく怖いものだ。

分断はいつだってあるし、解消しきれるものでもない。だから差異を無化するネーションへの統合などナンセンス極まりない。また、複数の分断のうちに「社会」を潜り込ませることで、分断それ自体ではなく社会構造に焦点を当てることも、分断それ自体を問いの対象から外してしまうという点で危うい。

相容れないもの同士が、分断を解消することなく、お互いに折れ合って適当なところで妥協する。この妥協のための営為を政治と名指すのではなかったか。