2020.03.21

『暴力の哲学』読了。再読なのもあるけれど、『自由論』と重なる部分も多く、そのうえ諸学者向けにひらかれていて、あっという間に読んだ。大学生の頃に読んで、なんだかとにかく感銘を受けたということだけ記憶としてあって、読んで、いつものように内容はほとんど覚えていなかったが、それでも今の自分のものの考え方のベースになっていたのだな、と気がつく。

 

(…)前述したように、全体主義的傾向と個人主義とはなんら背反するものではない。孤立化は、同質化と中心への従属のための権力の基本作用なのですから。ネオリベラリズムがまさにこの権力の作用を一つの核心に据えていることはみてきました。それは人々を市場原理のエージェントとしての個体、「自己責任」の個体として孤立化させ、不安と恐怖を媒介にして個体を市場と国家に対して無防備に開かせながら──「情報公開」とか「アカウンタビリティ」とかいろんな名がつけられます──、特異性という意味での個を消去していく。いまや集団に対して個を対置するのはますます無意味です。問われるべきは、開放性を唱えながらただ一つのゲームへの服従を強要していく力に対抗するための集団性のあり方です。かつて谷川雁は「連帯を求めて孤立を恐れず」といい、全共闘運動はこのスローガンを継承すると同時に転倒もしました。「孤立を求めて連帯を恐れず」というものです。ここに尽きているかもしれません。ぼくたちが本当に各々の特異性を承認しあうためには、なんらかのかたちの集団性が必要なのです。

酒井隆史『暴力の哲学』(河出書房新社) p.189


個人の自律を最大化することを求めることと、誰かと助け合って生きていきたいよね、という気分とは全く矛盾しないどころか、お互いに補い合う。

個人の自由という名のもとにおのおのの「自己責任」へと孤立させられることは、体よく個人の自律性を消耗させるばかりで、結局は「自分の単価はいくらくらいだろう」「自分は世の中に値するだろうか」というのをビクビクと計算し続けるようになってしまう。僕はそれはとても嫌だ。

値段がつかなくてもいいし、役に立たなくてもいいから、楽しく無理なく生きていたい。

僕たちは、僕たちらしくのびのびとあるためにこそ、集まっておきたい。


で、若林恵。やっぱり面白く、いい流れだった。三年くらい前にめちゃくちゃ「WIRED」づいていてその流れで読んだ『ウェルビーイングの設計論』がよかったことを思い出す。最近出た『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』も気になっている。ごきげんをわざわざマニュアル化するという実にアメリカ的な発想が、僕はわりと好きだ。なんでも言語化し、システムにしちゃうこと。自分たちはもっといい仕組みを作ってもっとよくあれるはず、という楽観は、たしかに危ういところもガサツなところもあるのだけど、でも好き。そこにあるのは──もちろん規模の拡大につれて簡単に反転しうるという危険を内包しつつではあるけれど──統治するものの管理論ではなくて、自律したものたちの自治としての管理のあり方を模索するようなところがあるからだ。