2020.03.28

午前中はRFA で運動。

朝ご飯を食べながら、奥さんと同居人と三人で朝礼というか、今日はこうやって過ごす気持ちです、というのを共有し合う会を行う。夕飯とその後のボードゲームに集合することになって、僕はめちゃくちゃ本を読むぞと宣言した。

Twitter で「#自宅フヅクエ」を遊びつつ、どんどこ読んだ。

 

エレンベルグ(Ehrenberg, 2014) は、DSMに見られるような、予防精神衛生の早期化・低年齢化には、主体の時間との関係の変化や、社会における自律の価値の向上の影響があるという。労働の全サービス化がュミュニケーション能力やパフォーマンスを要求し、社会の時間の流動化と不確定化が、社会化における、感情や衝動の管理を要求するようになったからである。ここにはパラドクスがあるとエレンベルグは述べる。「罪責感」から「感情と衝動の自己管理」への変化とは、見かけ上は、「管理から自律(オートノミー)へ」の移行のようだが、現実には「従属」を意味するからである。

樫村愛子『この社会で働くのはなぜ苦しいのか』(作品社) p.197-198


新自由主義の厄介なところは、わかりやすく「規律」によって強権的に人を「統治」していくわけではなく、「自由」と「自律」を称揚するという、それ自体は異論をはさめなさそうな原則をもとに、どんどん人を「自粛」や「自己規制」といった従属に人を追い込んでいくということだった。僕たちは今、ルールに縛られないでいるがゆえに、野放図な他者への不安や不信を過剰に膨らませ、むしろ身動きの可能性を封じられている。

 

「恥」は、「ナルシシズムの備給」「対象備給」「愛着(対象関係に見られる、欲求より優先する関係性および社会的次元を含意)備給」の三つの備給の断絶を生むことで、同一性の危機を生む。「恥」は、理想の感情との関係で形成されるものであり、自らのありように対する距離をもたせてしまう(こんな自分は情けないとする)という意味ではポジティヴな存在でもある一方、「恥」の感情を抱いたまま、自己の状態や周囲の状況を変えうる可能性がなければ、周りと遮断されてひきこもる状況を生む(前者は「警報としての恥」であり、後者が「症状としての恥」である)。自分が自分の自我理想と一致していないことの気づきからナルシシズムの備給の断絶が起こるが、それは主体が所属している集団から排除される脅威を生み、対象備給と愛着備給の断絶へと同時に結合していく。主体の同一性は同一性を支えるネットワークと相互不可分だからである(オラニエの「ナルシシズムの契約」(le contrat narcissique))。主体は内的な日印(自我同一性)と外的な目印(他者と社会性)の両方を同時に喪失し混乱する。こうして「恥」は関係だけでなく自我そのものの危機(両者の不可分性を含意するものとして、ティスロンは、ウィニコットやアンジューらの「自我の外皮 - コントゥナンス」を想定する)を招く。

このような主体の危機は、「恥」をばねに主体の再構成を生む契機ともなる。しかしそうでない場合、あきらめ、無気力、自己破壊を生む。「恥」は「罪」のように社会統合性をもたず(罪を告白すれば許される道が用意されている)、その情動性と伝染性によって社会関係を切断し、脱統合的である。例えば、「恥」の光景は見る者を失墜のイマージュに直面させる。「自分の中に閉じこもり、受動的で、押しつぶされ、従順で依存的な恥じる主体は、各人のうちに、いつの日か自分も同じ状況に立つのではないかという不安を目覚めさせる。他者のイマージュの悪化は、自己像の可能性の悪化」(Tisseron, 1992)を呼びさますのである。

こうして、「恥」についての考察を補助線として、貧困に対するバッシングは、貧困がもたらすイメージと不安に対する人々の心理的反応であることがわかる。「アンダークラス」をモラル・パニックにおいて道徳化することができれば、その伝染性は自らにとっては感染することのない安全なものとなり(または感染しないように遠ざけることも正当化され)、異質なものとして切断できるからである。ティスロンは「恥」についての救済においては、社会関係が必要であることを指摘する。本人の自我理想を回復し、そのためにそれを支える他者と社会関係が重要なのである。

樫村愛子『この社会で働くのはなぜ苦しいのか』(作品社) p.174-175


誰もが誰もの「自由」と「自律」を、人それぞれの価値観を尊重する。誰かの価値観にとって、自分の希求する「自由」とは、誰かの「自由」の不当な侵害にあたるかもしれない。そうやって他者の「自由」のためにほかならぬ自分自身によって抑制される「自由」。あの人たちのように、「自由」であれない自分が恥ずかしい。そうした「恥」の意識は、あきらめ、無気力、自己破壊を引き起こす。

あきらめ、無気力、自己破壊に陥らないための努力が、恥ずかしげもなく「自由」である他者への嫌悪を産み、増幅させていく。あいつが「自由」に見えるのは、あいつが恥知らずだからだ。俺はあいつらとはちがう。そうして「自由」の不自由さは不可視のものになっていく。


終え、『大洪水の前に』と『我々は人間なのか?』をちゃんぽん。

 

ベーネは、最初期の道具、住まい、建築は、常に機能と遊びの組み合わせだったと主張している。「原始人は単なる功利主義者ではない。彼らは道具にも遊びに対する本能を表現し、ニーズという需要を超えて、その道具をなめらかに、そして美しく仕上げ、色を塗ったり、装飾品で飾りつけたりしていた」。道具とおもちゃに境界線はない。ベーネは、そもそも形を生み出すことが遊びなのだと論じた。機能そのものは「どうやっても人間の興味をそそる」ことはできない。機能と遊びを切り離そうとすることは愚かである。純粋な機能主義者と呼ばれる者たちは、機能そのものよりも人間をリデザインすることに興味があるのだ。

ビアトリス・コロミーナ&マーク・ウィグリー『我々は人間なのか?』牧尾晴喜訳(ビー・エヌ・エヌ新社)p.88


夕方は体験版をダウンロードした「フィットボクシング」。インストラクターのシミュラークルが実に蠱惑的で、恋かも、と思う。