2020.03.29

午前遅くまで寝る。雪は解けてしまったらしいが昼過ぎまでにまた積もる。

ヒロアカ見て、『ドロヘドロ』見る。

同居人が起きだす。


本を読む。

 

市場が、目に見える製品のためでなく、政府、教育、健康、水、エネルギー、財政、負債、著作権、遺伝的特徴、アクセス権などをすべて結びつけて計算するための時代において、「人間中心」は「市場中心」を意味する。市場の拡大があまりに大規模かつ包括的である場合、もはや市場に含まれない場所などないように思える。人間中心デザインは結局のところ、人間の幸せにはあまり興味がないのだ。もしもデザインがまったく人間中心でなかったらどうだろうか?もし、現在の「人間」の定義に疑問を投げかけるデザインだけがデザインであるとしたらどうだろうか?

ビアトリス・コロミーナ&マーク・ウィグリー『我々は人間なのか?』牧尾晴喜訳(ビー・エヌ・エヌ新社) p.132-133


「フィットボクシング」のインストラクターのシミュラークルについて、奥さんに悶々と話していると、あなた早見沙織の声好きだもんね、と言われる。だいたい見た作品のほとんどできっついホモソ的幻想でコテコテにデコレーションされたキャラクターを演じていて、だから好きになれないキャラクターばかりなのだが、なんかあのキャラが気になる、と毎回僕は言うのだという。でも結局は好きになれないので毎回声優を尋ねては忘れ、一向に名前を憶えてこなかった。インストラクターはインストラクターなので、余計な幻想を満足させる余地がそこまでない。ないからこそいいというか、露骨になんでもかんでも丸出ししてしまうような欲望なんてエロくもなんともなく、禁欲的であるからこそ逆説的に感受してしまうエロさのほうがずっとエロかった。


夜は奥さんとお喋り。FGO のアニメを新自由主義批判の観点から無理やり読解してみる、というのをやった。『戦う姫、働く少女』の真似。思ったよりうまくいった。二人で深く頷き合う。明日は「ラフムと近代デザイン」について論じたいと思います、と言って閉会。奥さんは、教養というのは、腐女子的解釈戦略を押し広げるというか、ひとつひとつの出来事やコンテンツに対する手数の多さであって、それはとても豊か、みたいなことを言っていて、そうだね、と思う。


お皿を洗いながら、こういう前例のない事態に際して、どれだけの速さで、誰に対して誠実な判断を下すのか、みたいなところで勤め先への気持ちが急速に萎えたりするよね、というような話をして、二人とも異なる会社に勤めているが、それぞれにそれぞれのモヤモヤしたものがあった。