2020.04.13

fuzkue のプレイリストを、Spotify でかけながら本を読んでいた。いやあ、いい曲でしたね! と突然山里が割って入ってきてびっくりする。無料版は広告が入るらしく、それから山里と壇蜜が交互にやってくることになる。新婚芸。ふたりともバランス感覚がいい。あんまり嫌じゃない。山里と言えば僕はやっぱりJUNK で、僕はラジオと言えば22時以降のTBSラジオのことで、だから山里は爆笑問題の気配とおぎやはぎの予感に挟まれていた。大学受験のころからだから、もう十年以上も面子が変わっていないということだろうか。ファイヤーダンス失敗。

ラジオネーム、スタール夫人の自問自答です。

 

こういうサロンが失くなっても、あなたは生きていけるの? 鼻持ちならないって言うけど、この人たちがいなかったら、どう? こういうパーティが開けなくてもいいの? およそくだらない、この下品な連中のなかにいながら、自分だけは違うと思うことができなくなったら、どう?

レイナルド・アレナス『めくるめく世界』鼓直杉山晃訳(国書刊行会)  p.181

 

 

こっそり見下したり、バカにしたりする人が身近にいるのは、健康にいい。特に職場では、そういう人をでっちあげて自分を安全なところに置いてやらないと、危ない。

とはいえ下品さは有害だった。僕は下品さや、不遜や、想像力の欠如や、思考の浅さを憎む。それらは簡単に僕たちの穏やかさを蝕む。

いま、見聞きする「政治」のニュースは、たしかに生活から穏やかさを削っていく。残念ながら、この生活は「政治」と無縁ではいられない。

 

では、このような「政治化」の状況においては、政治体制全体に対する有効な批判と抵抗とはありえないのであろうか。おそらく、そのための一つの方法は、「政治化」の波が個人の内面生活にまで及ぶことを、各個人において阻止することであろう。各個人が自己の内面に深く沈潜し、自覚的にもっとも個人的である場合には、個々人の私的生活は「政治化」されえず、したがって、そこからなされる政治についての発言は、体制全体に対する批判ともなりうるし、また抵抗の拠点ともなりうるといえよう。このような、個人の自己貫徹を前提とした政治についての見方こそが、真の政治的関心と呼ぶに値するものであるし、時としては、自分を非政治的であると自覚することさえもが、もっとも政治的な意味をもちうるのであり、それは「政治化」の時代がもたらす当然の帰結といえる。なぜなら、すでにみたように、「政治化」とは、じつは個人にとっての外在的条件が、個人の内面世界にいたるまで規定してしまうことにほかならない。そして、本来人間の営みであるはずの「政治」が、各個人にとって外にあるものとして機能するようになったときには、内面の自覚化はそのまま抵抗であるし、また「政治化」を前提とした統治構造の社会的基盤を掘り崩すからである。ただ、大衆社会化状況がこのような各個人の内面の自覚化を困難な課題にしていることも事実であろう。

有賀弘/阿部斉/斎藤眞『政治 個人と統合』(東京大学出版会) p.205

 

 

抵抗のためにも、生活の穏やかさに執着すること。日々に愛着を持つこと。楽しく暮らすこと。

でもそれだけじゃいけなくて、そうした生活のために抗うこと、怒ること、語ることが必要なのだ。もっと声を持たなければいけない、いけない、なんて、断定的な言葉遣い、できればしたくないのだけど。

 

上からの「政治化」に対する抵抗が、各個人の内面生活の確立によって保障され、国民の意思の政治への反映は、各個人が自己の利益を強く主張することによって達成されるとすれば、そこに描かれるべき政治社会の像が、近代社会のそれといちじるしく異なったものであることはいうまでもない。近代議会主義の理念や、近代における政治社会の構成原理としての社会契約説に従えば、国民の一人一人は「政治」の主体的な担い手であることが前提とされていた。これに対して、少し乱暴ないい方をすれば、現代においては「政治」の存在が前提とされた上で、各個人はその政治の分業化された「部分」を占めるものとして意識されているといえよう。それは人間の公的な側面についてみれば、組織化の進行にともなって、「個人」としての機能よりも組織の「部分」としての機能の占める比重が圧倒的に増大してしまった結果、「個人」は私的な側面においてのみ意識されることになったとみることもできるであろう。私的な「片隅の幸福」が人間の主要な関心の一つとして登場することになった根拠はここにもある。

同上 p.207-208

 

 

「政治」は本来所与のものではない。どんな形であれ、人が考え人が作り人が使っていくフィクションだ。人の道具なのだから、人が見直し、調整していくしかない。