2020.05.26

すっきり起床、労働、ハリポタ。

奥さんが綺麗に梱包してくれた日記本を、郵便局に出しに行く。午前のうちから外出できると気分がいい。

洗濯したての部屋着が臭いと奥さんが言い、槽洗浄を開始した。11時間もかかるらしい。ついでに風呂場のカビなんかも簡単に擦り取った。一仕事した感じがある。

 

『通勤の社会史』はロマンと死に彩られた通勤黎明期の記述を終え、現代に入る。日本の満員電車への言及に至って、ほとんどが痴漢という「文化」がある、という話に割かれており、まじでこんなことを書かれるこの国はクソだな、と思う。しかし書き方も──日本の書き方ではなく、日本はもっとディスられてよかった、そうでなくて、女性に対する態度がなんか舐めてる感じが伝わってくる文章だった──非常に嫌な感じだったので、そもそもこのイアン・ゲートリーという人への嫌悪感も募った。嫌な気持ちのまま、嫌な気持ちになるためにわざわざ田山花袋少女病」を青空文庫で読む。

 

それから『労働と思想』。楽しみにしていた斎藤幸平によるネグリ=ハート。面白かった。『なぜいま家族のストーリーが求められるのか』では「公私混同」を軸に現代を分析していたけれど、僕はなんだか不足している感じがして、それはおそらくここで論じられるような「共」の概念だった。小倉ヒラクがかつて「ネオ豪族」と名付けたような、ローカルなコミュニティの相互扶助。それは「公」でも「私」でもない「共=コモン」だった。コモンといえばイリイチの「静けさはみんなのもの」という言葉を引いた若林恵の文章や、クリエイティブ・コモンズを論じるドミニク・チェンを思い出す。新自由主義的なテック楽観主義でなく、人文的な「共」に比重が置かれていたからこそ、若林時代の「WIRED」が好きだった。「共」は、みんなのもの。

ラクラウ読んで、グラムシに戻り、いま一度ハッとする。

 

一九七〇年代の資本主義の危機は、フォーディズム的な蓄積体制と調整様式の破綻を意味していた。すなわち、消費主義、支配的な価値としての「成長」と「進歩」、自然環境の酷使、強い労働組合と企業との社会的パートナーシップ、福祉国家的施策などに特徴づけられるヘゲモニー・プロジェクトは、六〇年代まで社会的同意を獲得してきたが、もはや持続不可能となったのである。この危機を克服しようとする新自由主義ヘゲモニー・プロジェクトは、金融市場の自由化や情報機器テクノロジーの飛躍的な進化などを利用して、九〇年代以降とくに進展した。多国籍企業の世界戦略にたいして、有利な「立地点」を提供するために、各国の政治は誘致競争で勝ち残ることを目標にするようになり、議会政治は選択の余地をせばめられている。非正規雇用化や社会保障の縮小などにより、「成長と消費の増大とのフォーディズム的な連関は崩壊した」(「国家』一三五)。自然や知識等の商品化が進み、社会の「全般的資本主義化」が顕著になるなか、労働関係のフレキシブル化は賃金格差を拡大させ、平均的な実質所得を低下させるように進展した。その結果、「支配的な市場メカニズムと競争メカニズムの枠内で『企業家としての』個人の自己実現と自己形成に訴えること」(『国家」二二二)が、支配的な言説になったのである。

石英人「グラムシ ポスト・フォーディズム時代のヘゲモニー」『労働と思想』(市野川容孝・渋谷望編、堀之内出版) p.174 

 

だいぶいま考えたいことにクリティカルな感じがするのだけど、きょうはもう思考が回らないみたいで、ひとまずメモしておくに留める。『労働と思想』寄稿人が多数参加している『『資本論』の新しい読み方』が気になり、著者のインタビューが堀之内出版のnote に上がっていたので読む。これも面白かったが、一日の思考能力の限界を迎え、『IN/SECTS』に切り替える。大阪七墓巡りが楽しそう。

 

それからハリポタ、日記、ハリポタ。とにかく読み続けていたいみたいで、取っ替え引っ替えしているが、頭は割と限界で、疲れている。休め、と思う。ハリポタを読む。休め、と思う、『IN/SECTS』を読む。休みたい、と日記を書いて、おそらくまたハリポタを読む。