2020.05.27

『労働と思想』はラクラウ。わかるようなわからんような。『通勤の社会史』を終える。あとはずっとハリポタの合理主義を追う。

GEZAN の、十三月のYouTubeチャンネルにアップされた二本のドキュメンタリーをみる。NEO POGOTOWN も映っていて、いいなあ、と思う。こういう場所が作りたい。外向けの言葉でなく、親密圏の内側で発せられる声がそこにはあって、それがよかった。ずっと『狂』を聴いている。

 

第1回「書くこと」はなぜ難しいのか? - 苦しみの執筆論 千葉雅也×山内朋樹×読書猿×瀬下翔太:アウトライナー座談会 | ジセダイを読んで、書くというのは大変なことだなあと思うが、僕はこの日記もそうだけれどなるべく一文を長引かせて思考をうねらせるというのをずっとやっていて、なので整合性や簡素さよりも脱線や飛躍をこそ重視している書き方をしてきていて、いま書こうとしているものはどちらかというとそうした書き方では具合が悪いようなところもあったので、大変な方の書き方もやってみるか、とWorkFlowy でアウトラインを書き出してみる。いつもと違う筋肉が使われる感じがあって、それは学生時代のレポート作成を思い出させた、僕はレポートが下手だった。この日記や、さいきん試しているラジオ的なものもそうだが、僕は基礎を疎かにして、というよりも基礎というものの不足を自覚したうえで、基礎がないなりの方法論というのを試してみたいところがあって、簡単なブログの文体やラジオの語りの技法というような、「ぽさ」になるべく寄りかからないでやってみるということをやりがちだった。バズらない、のどごしで勝負しない、というのが僕のスタンスだった。しかしそれはバズろうと思えばいつだってのどごし勝負できるということではなく、それは僕にはできないことだった。バズらないなら、安心して既存のプラットフォームを使える。プラットフォームの片隅で、数の論理の埒外で、プラットフォームの規範からはみ出して行為する、それが日記やラジオで僕が実践しているつもりのことだった。素人くささを、安易に手放してはいけない。アウトライナーを使って書くことは、どれだけ僕の素人性を抑制するだろうか。すこし楽しみだった。

 

奥さんは今週は見たい配信がたくさんあるので夜は単独行動だった。話しかける相手がいない中で話せるかもう一度チャレンジしてみようと思って、stand.fm で生配信をやってみる。いくらかコメントがあって、相互のコミュニケーションがありさえすれば、発言の取り返しのつかなさい状況がありさえすれば声を出せるとわかって楽しかった。その勢いで収録のほうも終えた。こちらも結局編集せずにそのまま出すだけなので、生で語ってアーカイブしてもいいのかもしれない。でも生だとコメントに反応したいし、そうやっていちいち気を取られて脱線していくほうが面白いだろうと思う。テーマを決めてそれだけを話すというのは、文字だといいが声を使うのであればあまりいい方法ではない気がして、もっと気や話題を散らしながらの雑談にしてしまってもいいかもしれない。