2020.06.15

見田宗介の『現代社会の理論』を終えて、真木悠介の『時間の比較社会学』を挟むか迷いつつ、『社会学入門』に移る。『現代社会はどこに向かうのか』を再読して、やっぱり遡りたいな、と思われたためだった。序文で僕の座右の書である『気流の鳴る音』の発展として『時間の比較社会学』が置かれていて、がぜん読みたくなった。この順番でよかった。

 

「社会」という語は、伝統的な日本語の内にはなかった。Society[英]、Gesellschaft[独]、société[仏]などの翻訳語として、明治期に創出された。一八七七(明治一〇)年頃に、福地源一郎、西周などの表記をとおして次第に定着したとみられる。

伝統的な日本語の中で「社会」の語にいちばん近く、一般的であったのは、「世間」であった。「世間の荒波」=「社会の荒波」というように、今日でもしばしば「社会」の同義語として用いられる。この「世間」とは、柳田国男らの民俗学があきらかにしているように、元来、共同体の外部を指す語であった。(「世間噺」「世間通」とは、ムラ共同体の外部世界の話であり、外部の事情に通じた者である。)共同体にとって外部の集列性の世界を指す語であるゆえに、それは「荒波」「冷い風」などの表象と結合しやすかった。日本人の「社会」のイメージは、「社会に出る」という言い方のように、このような「外部」としての「世間」のイメージと重なっている。ヨーロッパ各国の言語における society, société, Gesellschaft などは、すべて「仲間」「共同」という原義に由来し、社交界、協会、会社という語義をももつように、元来「内部」(仲間内)を指す語であった。

見田宗介社会学入門──人間と社会の未来』(岩波新書)  p.21-22

 

さいきん書いている草稿において「社会」を語ることが多く、しかし社会ってなんだろうな、という座りの悪さがあったが、この記述にだいぶ助けられた感じがある。僕らの感覚では社会 ≒ 世間は外部なのだ。会社を親密圏の外部と感じるか内部と感じるかによって、社会の捉え方もまた変容しそうな予感がある。このへんは近く丁寧に言語化する予定なのでここでは急いで走り書くだけにしておく。こうやって書きっ放せるから日記はいい。

 

仕事の合間にAffinity Publisher を夢中で触る。

あたらしい個人制作の雑誌を来週あたりに創刊する予定だ。