2020.06.17

電車のなかでは『21世紀の貨幣論』。面白い。共同体と共同体の間での信頼取引の道具として、マネーが再発見される。見田/真木が指摘するように、個人間のやり取りではなく、異質な共同体間でのやり取りではじめて普遍性というものが問題になってくる。共同体内での個人間のやり取りは具体的な見立てで充分──たとえば牛飼いの共同体のなかで時間は牛の動きによって表される──だが、異質な共同体間では抽象的な共通項を仮構しないことにはうまくいかない──共通の具体的なイメージがない──からだ。異質な共同体が出会うことで初めて時間、度量衡、価値についての共通の規格が要請される。

長距離の通勤が時間を生む。植民者が度量衡を生む。貿易が貨幣を生み、帳簿を生み、銀行を生む。

普遍的で抽象的なものというのは、それぞれ異質な具体の世界に生きるものたちが、外部と連絡するために作られていった。そうであれば、時間や価値がグローバルに一元化しているように思えてしまう現代の息苦しさとは、親密で具体的な内部の不在が原因なのだと言えるかもしれない。


事務所のサーモグラフィーはずっと白と黒だから安物なのかと思ってたけど、コンビニでコーヒー買って入るとちゃんとコーヒーは真っ赤に映っていた。マスクと眼鏡は真っ黒になる。


何もかもが不毛だな、という気持ちで帰路。昨晩の不調が響いているようで、気力も体力もない。きょうするつもりだった買い物もしそびれてしまった。


帰宅していただいた『H.A.Bノ冊子』が届いている。うれしい。読んで元気が出てくる。

 

『時間の比較社会学』で言及があって、あそこ面白かったよねえ! と思い出された『野生の思考』をパラパラやると、やっぱり面白い。

 

(…)もしある意味において、宗教とは自然法則の人間化であり、呪術とは人間行動の自然化──ある種の人間行動を自然界の因果性の一部分をなすものであるが如くに取扱う──であると言うことができるなら、呪術と宗教は二者択一の両項でもなければ、一つの発展過程の二段階でもないことになる。自然の擬人化(宗教の成立基礎)と人間の擬自然化(私はこれで呪術を定義する)とは、つねに与えられている二つの分力であって、その配分だけが変化するのである。

クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳(みすず書房) p.265

 

未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きをもち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読みとるアメリカインディアン、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく誰のものかを言いあてるオーストラリア原住民(Meggitt)のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらには目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、 いま相手の車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なるところはない。

同上 p.265-266