2020.06.22

『21世紀の貨幣論』読了。最後に仮想対話形式で全編のまとめみたいなのをやってくれるのがよかった。中盤目が滑ってたところも、とりあえず勘所は抑えられたような気持ちになれた。

一番面白かったのはスパルタの話。貨幣が信用の物象化であり、そうであるがゆえに良くも悪くも個人は共同体の楔から解放され、他人に信用を譲渡することすらできるようになった。貨幣によって、信用も個人も、流動的に移動することが可能になる。けれども、全体主義の「ユートピア」において、固定的で、安定していることこそが重要であり、流動化し不安定を引き起こす貨幣などまったく無用であった。

マネー社会を最も鋭く批判していたのは、高い見識を持つアテネの芸術家や思想家だったが、マネー社会を完全に否定する政策を実行したのは、アテネにとってイデオロギーの最大の敵であるスパルタだった。

ある意味、これは当然のことだとも言えた。スパルタは好戦的な全体主義国家であり、「ギリシャ教育機関」を自認するギリシャ市民に比べて、剛健さは際立っていた。スパルタの政治体制は危険なまでに狂信的だと感じていた者もいたほどだ。

なにしろ、スパルタでは自国の軍国主義的な精神に耐えられないと見なされた虚弱な新生児は遺棄され、生き残った子供は7歳になると厳格な軍事教育を課せられた。そして12歳になると家庭を離れ、集団生活に入る。スパルタ市民は家庭という機構をみずから放棄し、男は軍隊方式の共同生活を送り、男女とも国家に絶対服従を誓っていた。古代世界ではきわめて珍しい例だが、法の下で男女は平等に扱われた。しかし、厳格なカースト制がとられており、下層階級の農民は世襲のエリート階級による野蛮きわまりない暴力支配を受けていた。

 

だが、スパルタには因習、伝統、固定観念に染まった超統制社会があったからこそ、ある傑出した歴史家が「歴史上で最も重要な理想的社会のモデル」と評するような国家になったのだと、多くの古代思想家は見ていた。スパルタ人自身はまちがいなくそう考えていた。

スパルタの政治体制は四世紀以上続いていた。しかも統治の仕組みが変わることはなかったとされる。スパルタ人は自国の社会構造は完璧なものだと信じて疑わなかった。紀元5世紀後半の戦争でアテネに勝利してギリシャの覇権を獲得すると、その確信は揺るぎないものになる。そう考えれば、マネーの望ましくない側面に対して、民主主義的なアテネよりも強硬な措置がとられたのも不思議ではない。

そもそも、スパルタにとってマネーのような社会のイノベーションが何の役に立つというのだろう。真の自由とは、共同食事団の一員であり、部族の一員であり、究極的にはスパルタという国家の一員であることによって保証される自由ではないのか。400年の間変わらない体制を安定と呼ばないなら、いったい何を安定と呼ぶのか。結論は明快だった。理想の国家であるスパルタに、このイノベーションは必要ない。スパルタは自国の伝統的な社会構造は完璧だとして、貨幣を使用しなかった。

(中略)

マネーの欠陥に対抗するには、貨幣を排除して、伝統的社会に回帰する以外に方法はないと、スパルタ人は信じていた。この戦略は、マネーの欠点を克服するものとして、何世紀も前から繰り返し支持されている。古代世界では、アテネの最も偉大な哲学者であるプラトンでさえ、この戦略を支持していた。

プラトンは自分の理想国家について、貨幣を完全に廃止するとまではいかないまでも、貨幣は厳格に規制して、貨幣を使った交換を厳しく管理しなければならず、また、最も高い階級の市民は貨幣を使ってはならないと定めている。

しかし、スパルタ式戦略の原理そのものは、時代に関係なく、完全に理にかなっている。貨幣を使わない社会制度がうまく設計されていれば、貨幣は使われなくなる。もちろん、国の制度がどれほど完全なものだろうと、腹立たしいくらいに不完全な人間である市民がすべてを台無しにしてしまう可能性は消えない。そのため、人間は基本的に善であるという前提に立つ伝統的社会では、スパルタ式の戦略が多く採用されている。その最たる例が、西欧の伝統的な社会主義社会である。

フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』遠藤真美訳(東洋経済新報社

 p.240-243

 

この前のデートで、さいきん日記を書くのが億劫、でもこういう時の日記こそ、後で読み返すと面白かったりするというか、くたびれて日記どころでない時の日記のほうが、普通にしていたら残るはずのない文字なのでそりゃ面白いよね、という話をした。

 

それはそうとして、文字を書く気が起きない。だから引用が増えていく。引用するのは自分にとってしっくりくる文章ではなく、プルーストはそうだったが、基本的は異物感があるものばかりを引いている。自分の意見を権威づけたくて引いているわけではないからだ。自分では文字にくだしきれない文章をとにかく引っ張っておく。いつか読み返した時にようやく消化できるかもしれないから。だから外山恒一もそうだし、あとはたとえば酒井隆史なんかもそうだけれど、イデオロギー色のきついもののほうが日記には引きやすい。引用は賛同ではない、納得ですら必要ではない、というのは、Twitterリツイートにも感じることで、しかしそうではなく引用したからには肯定しているのだろうというような反応を想定してしまうのも確かで、とにかく僕は僕の周りには違和感や異物感があったほうがいい。気がついたら馴染んでもいるかもしれないし、どうしようもなく拒絶を示すほかなくなっているかもしれない。