2020.06.23

『時間の社会学』読了。図書館に行って他の本と一緒に返し『自我の起源』などを借りる。「としょんかに行ってくる」と言ってからこれはなんだったかと考えて、『DELTALUNE』だったなと気がつく。

 

ただ過去だけがリアリティをもつということを、プルーストはくりかえし書いている。

形式的な見方からすると、古代人や中世人もまた、過去にリアリティを与えていたということもできる。けれどもプルーストのばあいは、彼らとは反対の理由にもとづく。

プルーストが過去にリアリティを求めるのは、なによりもまず、現在の生が形と固定感を失い、リアリティを解体しているからだ。古代人や中世人にとっては、プルーストが「信仰」とよんでリアリティの基礎においているものは、はじめから、いわば即自的に共同感覚のうちに与えられ、現在の生が即自的にリアリティをもっているゆえに、過ぎ去った現在であるような過去も、現在の生の共同の意味であるような過去も(すなわち歴史としての過去も神話としての過去も)、それぞれにしっかりとしたリアリティをもつのだ。たとえそのリアリティが後世の人びとからみて、あるいは異邦の人間からみて、どれほど幻想的なものであろうと。


田舎の自然のただなかにあっては、われわれは自分たちのいる場所の独自性やその個性的な生活をまるで深い信仰のように信じる………。〔「スワン家のほうへ」。強調は引用者〕


リアリティを生みだす力としての「信仰」とは、このような共同幻想の力に他ならない。それはある一定の個別的なもの、──樹木とか人物とか習慣とかを、かけがえのないものとして愛着させる力だ。

プルーストの過去志向の根根にある事態は、古代人や中世人のそれとは逆に、現在の生のリアリティを支えるこのような共同幻想の力の解体という事態だ。

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店) p.226-227 *原文強調は傍点


プルーストを読んでも威張れるわけでもなくただ楽しかっただけだが、いいことがあるとしたらそれはこうしてプルーストに言及する文章に対して親しみを覚えるということだった。おお、あいつかあ、というような。知っている言葉が増えるほど、楽しく本が読めるのと一緒だ。マルクスの「物象化」や木村敏の「ノエシス的・ノエマ的」という言葉の用法を知っていると、そうした語の置かれた一文に込められた情報量の多さに気がつくことができる。


それで木村敏は大学一年の時に読んだが今読んだらまた違うだろうと簡単な『あいだ』から始めて『自己・あいだ・時間』を読み返すことにした。当時は演劇にどっぷりだったので音楽の演奏の喩えなど、演技論や演出論として読んでいたし、実際僕の芝居を作るときの理念や方法論みたいなものは多くの部分を木村敏のこれらの本を曲解することで培った。


ちゃんぽんでみすずの『合理的選択』を始めて、これもまたよさそうな本だった。僕にとってのよい本とは、文意や論旨をおおまかには捉えられてるな、という自信をもちながら読み進められること、そのうえで、それまでしっくりきていなかった考え方のしっくりくる使い方のヒントや取っ掛かりを得られるような本のことだった。

お金と労働。あらゆるものを測定し抽象化すること。数字。そういうものに対する苦手意識をちょっとでも何とかしましょうキャンペーン中なのだった。