2020.07.07(1-p.82)

午前中から仕事が混んで、在宅だとギリギリまで寝るので起床即しゃかりきで、ぐったりした。落ち着いたころ、ペースを取り戻そうと作業しながら『ヒックとドラゴン』を観た。奥さんが先週観て、これは大好き、と言っていたので、十年ぶりに観返す。やっぱりいい作品だった。ムラ社会のたるいところはありつつ、その構成員がわりと合理的で話が早いのが最高。悪しきはムラの閉鎖性そのものでなく、非合理を是としてしまう硬直性だ。そして後者はムラだけでなく都市にだってありふれている。現職がどうしても強い都知事選なんかに顕著じゃないか。

午後はハインリッヒ『『資本論』の新しい読み方』を三章まで。マルクス主義マルクスは別物だからね、というイデオロギーと理論の冷静な峻別が頼もしく、面白く読んでいる。そろそろ原典にあたってもいいな、第一巻第一章についてもう何度も入門しているわけだし、と、いよいよ『資本論』を始める。マルクスを読む生活の始まりだ。

起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばらの光のなかに描いてはいない。しかし、ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである。 マルクス資本論(1)』岡崎次郎訳(国民文庫)p.25-26

のっけから頼もしい。左寄りの思想書を読むとき、どうしても鼻につくのが資本家や権力者がわかりやすく世界をクソにしているというような陰謀論めいた論調で、序文ではっきりとそのへん否定しているマルクスは信頼してもいいな、と改めて思う。

自分の滑舌すらどうにもできない一為政者が思うままに政治をコントロールできると思いこむのは無理があって、問題とするべきは視野狭窄に陥っている小人物が七年だかの期間にわたって表舞台にのうのうと出ていられる構造そのものだ。しょうもないボンボンを叩くことでなんとなく何かしたような気になってしまうのは無意味だし、危険ですらある。同じくらい危険で、ろくでもなく、品性のない人物などありふれているし、結局そういう人がまた政治を行うのであればまったく意味がない。

今回読むのは国民文庫版全9冊だ。9冊目は索引とからしいから実質8冊。訳の比較などいろいろやってどれも一長一短そうだったけれど、最終的な決め手は文庫サイズであることだった。あと真っ赤な装丁が格好いい。マルクスを読むときまず問題になるのはどこから読み出すかだろう。70頁位に及んで、序文、二版のための序文、フランス語版への序文、エンゲルスによる三版および四版のための序文、と延々と序文が続く。何年も前、ためしに挑戦してみるかと本屋で立ち読みをしたときは、この序文ラッシュにはやくもやる気を削がれたものだった。序文からして読みにくかったからだ。今だったら読み飛ばしちゃえばいいじゃん、と平気で言えるのだけど、ある程度前提知識を仕入れたいま読むと案外読みやすく、あれ、マルクスわりと文章巧いじゃん。わかるわかる、わかりやすく書けてるよ、などと不遜な感想すら抱いた。エンゲルスの序文も──『大洪水の前に』などを読んでエンゲルスという最大手をも「解釈違い」とする過激なマルキストにかぶれている身としては──重版にあたってどんな変更を行ったかを確認するのは興味深い作業だったし、四版の序文なんかはほとんどマルクスの引用方法についてイチャモンをつけてきた匿名の投稿者に対してネチネチと反駁した挙句「はい、論破」とばかりに締めくくっていて、クソリプを引用リツイートで晒す人みたいだな、と面白かった。

プルーストは小説だったが、マルクスは思想であり研究だ。一口に読むと言ってもだいぶ質が違うのはもちろんなのだけど、あんまりスタンスは変えず、多くの他の本に脱線しつつ、一年くらいかけてゆっくり読み進めていければそれでいいかと考えている。