2020.07.14(1-p.115)

プルーストの頃は、神経質に毎日の更新にこだわったり、毎日一行は読み進めることにしたり、わりとストイックだったしそれはそれで楽しいのだけど、マルクスはまとまった時間と体力が必要だし、なるべくゆるめにやっていこうと思っている。読んでればいつかは読み終わるし、別に読み終えるだけが読書というわけでもない。

今日は『本屋さんしか行きたいとこがない』と『ざらざらをさわる』を読んでいて、どちらもシンプルな言葉で自身の実感に誠実であることを旨とした文章だった。前者はひたすらに気持ちがよかった。視界のフラットさというか、自分にとっては肯定できないものに対する視線がちょうどよくていい感じ。しかし後者は、取り上げられる生活上の「ざらざら」は自分にも身に覚えのあるものばかりにもかかわらず、なんとなく違和感があった。障害というほどではないのだけど何となく日々のつつがなさを妨げる、「ざらざら」の前でままならない自身の描き方が、感傷的過ぎるというか、自らの愚図をそれっぽく描きすぎなように感じてしまったのだと思う。僕はこういうスタンスは好みでないな、というのと、とはいえこういう文章はインターネットでウケるんだよな、という気持ちとがないまぜになって、微妙な苦笑をたたえながら読んでいた。 ただそれらしく加工された、ふわっとした自意識以外に読み取れるものがないような文章。note なんかで読んだらふわっと「スキ」したであろう文章。そのように感じてしまって、これはいまの僕の限界かもしれない。個人的なことがどうしても帯びてしまう社会性に無頓着なまま、凡庸な生活のひだにたいして感傷的に接する、そういう態度を、僕は本に求めていないようだった。体調のいいときというか、余裕のある時に読むとまた感じが違うかもしれない。絵は大好き。

あとはもうずっと寅さんを観ていた。柴又慕情から忘れな草まで。合間に『ファイナル・デッドコースター』を挟んだ。