2020.07.24(1-p.170)

引き続き『分解の哲学』。いまのところきのう読んだ積み木の話がいちばん好き。きょうは屑拾いから葬送へ。マルクスが「クズ」呼ばわりした人たちを、分解者として名づけ直すこと。名づけ直しもまた、いちど分解し、再構成することだ。労働を称揚するスタンスは、僕はやっぱり苦手で、それはマルクスの批判すべきポイントなんだと思う。マルクスの、あるいはそこから派生する労働者最高! という考えを発展させていくと、簡単にナチズムやスターリニズムを再生産してしまう。労働は、体にも精神にも悪い。労働はろくでもない。僕はそう言いたい。それでもいまマルクスを読むのは、労働を強いるシステムの観察について、マルクスは優れているような気がしているからだった。実際イデオローグでなく、理論家としてのマルクスの冴えはすごいものがある。資本主義を考えるためにマルクスを読むのであって、労働者としてのアイデンティティを強化したいわけではないし、むしろ労働を相対化するためにこそ読んでいる。

きのうはいちにち嫌な雨だったが、きょうは降ってはおらずとはいえいい天気ではなく、しかし降っているよりはマシだった。太陽が恋しい。年々夏が待ち遠しくなる。好きではない。湿気は無理。けれども太陽が恋しくなる気持ちはほんとうで、天気ひとつでコンディションがだいぶ変わる。加齢とともに季節や天気の変化に敏感になるのは、環境と体との不可分であることが無視できなくなるからというか、体の弱りというか、環境への開かれ具合が子供の頃とは違う。あるいは感覚が使い込まれることで敏感になっている。

ひとりになりたい、というのはやっぱり違う気がしていて、どちらかというとあんまり親しくない人と無責任なおしゃべりがしたい。推敲しようと思えばいくらでもできてしまう文字よりも、声で雑にやったほうがよりしっくりくることもあるなあと思ってきていて、そういう雑さを行いたい。奥さんとだと、すでに擦り合わせ済みの価値観が多くて、あ、そこから齟齬があるんだ! というような揺さぶりがない。そういう揺さぶりが欲しい。そもそものところ、自分が自明視しているとことをわざわざ言語化するというのをしたい。もしくは、まだ言葉にならないところというか、問いにまで煮詰められていないことについて、複数人でへらへらと弄びたい。

毎週月曜日を配信の日と決めたのだけど、次のぶんの録音がまだできていない。一人でしゃべるのはやっぱり喋るネタから自分で出さないといけないので、声は双方向でこそ便利な道具であって、一人でぜんぶやるには不便だな、というのを感じている。文字は発信の道具だが、声は応答の道具だ。たぶん。

オムラジに出したお便りが読まれるらしい。楽しみ。