2020.08.03(1-p.187)

きょうからグレーバー『官僚制のユートピア』。

 

我々は自由を追求してきたはずなのに、その結果として膨大かつ複雑なペーパーワークに埋もれ、対応しきれない自分がバカなんじゃないかと思わされるような事態を招いてしまった。なぜなのか?

この問いから始まる本書は三部から成り、それぞれ暴力、テクノロジー、合理性への愛着という切り口から官僚制を考えていくという。

 

きょうは序文と第一部。官僚制と暴力の関係を読む。 ひとをルールに従わせるというのは、かならず暴力による強制によって実現される。ルールを作るのは腕っぷしの強い乱暴者であり、ルールを恣意的に破ることができるのも、ルールの作成者だけである。つまり、腕っぷしの強いものが、この世を制するのだ。 なぜだか行政府の長が自信を立法府の長だと勘違いしているようなおかしな国では、この身も蓋もない話が悲しいほどに説得力を持つ。

 

声が大きかったり、力が強い人によって押し付けられたルールのもとに、窮屈な書類仕事に忙殺される。そこから脱する方法は、より強い力でもって既存の権力体制を転覆するほかないのだろうか。結局それでは力の強いものが力の弱いものを管理し、力の弱いものほど相手のルールに敏感でいなければならない状況を再生産するばかりではないか。

 

読みながら考えていたのは僕は『ドラえもん』だった。

ジャイアン(暴力)に裏打ちされたスネ夫(資本主義)から空き地を取り戻すには。のび太(怠惰)でもないだろう。ではドラえもん(テクノロジー)なのか?