2020.08.04(1-p.187)

引き続き『官僚主義ユートピア』。きょうは第二部。テクノロジーと官僚制。

 

分厚い見た目に反して気軽なエッセイという感じなので、すいすい読める。第一部とは関連は薄いようでもあるけれど、暴力や資本主義に抗するものとしてのテクノロジーの可能性を考えるための道具が揃っているように感じた。

 

暴力による強制がなければ官僚制は成立しないという第一部は、こういう話になるよねえ、というところで終わってしまったけれど、「空飛ぶ車」から議論が始まる第二部は、どうなることやら想像がつかなかったので、読む前からわくわくしていた。

 

ソ連という対立項があった時代、テクノロジーは宇宙や「空飛ぶ車」や「ドラえもん」を志向していた。それは何より国家の尊厳をかけた示威行為であり、経済的な観点は二の次であった。宇宙競争におけるアメリカの勝利の以前、ソ連の「荒唐無稽」な計画の数々は、リアルに脅威であった。 ソ連崩壊後、テクノロジーの計画は、公正明大な会計の論理に完全に乗っ取られてしまった。

会計係への説明責任が肥大化するにつれて、「荒唐無稽」な計画は書類申請の時点で却下されるようになってしまった。確度の高い経済的なインパクトだけが指標となり、既存の経済システムや「現実」それ自体を根本的に書き換えるような計画、誰も結果を予想することのできないような本来的な意味でイノベーティブな研究は、実施前に頓挫する。フーコードゥルーズが現代に生まれていたら、大学に居場所なんてなかったであろう。

 

かつてのSF的想像力は、リアルな物質世界の変容を描いていた──宇宙開発しかり、意思を持ったロボットしかり。けれどもいまでは、シュミュレーションとしての仮想空間上──サイバー空間や異世界への「転生」──にしか物語は展開されえない。 いま僕たちが手にしたテクノロジーの成果って、スクリーン越しの郵便局、商店街、寄り合い所でしかない。そんなおままごとじゃなくって、欲しかったのは手で触れて、乗り回せる、具体的なモノ、空飛ぶ車だったはずなのに!

なにごとも透明性・予測可能性を旨とする官僚制では、荒唐無稽な今はない「現実」を描くことができなくなっている。そんな状況下で「現実的」「現実主義」などと名指されるものは、たんなる「現状追認」にしかなりえない。いまある「現実」以外の現実を想像する余地すらないかのように感じられる。これってすごくつまんないよね。

 

そういう話で、いい話だった。

 

録画してあった福岡伸一×伊藤亜紗×藤原辰史がナウシカを語る番組を観て、奥さんとおしゃべり。奥さんはやっぱり非常に理知的で、官僚制の話も交えていい話をして、こういうのラジオでやりたいなあ、とそれとなく提案する。