2020.08.05(1-p.187)

『官僚制のユートピア』も佳境。第三部。僕たちはなぜ官僚制を愛するのか?

 

第一部では官僚制は暴力なしには成立しえないものであり、成立要件からして暴力という愚かさを有している官僚制が愚かであるのは当然だと示した。第二部では官僚制的会計手続きがいかに人の想像力を減退させたかを明らかにし、官僚制を支持する「現実的態度」は単純な現状追認に過ぎないことを看過した。愚かで、足手まといな官僚制が、それでもかくも強力なのはなぜか。それは僕たちが官僚制のことを、なんだかんだ好きだからだ。第三部では官僚制への愛着の根拠として「現実」のほかに「合理性」というものを提示する。

しかし、この「合理性」という言葉も厄介だ。理性に合っている状態を健常とし、それ以外を異常とする態度。かつてはこの理性という言葉は神や普遍といったものと不可分の概念であったが、近年になってそうした全なるものへの志向からは切り離され、客観的な「数値」とだけ親和的なものとなっている。

神の死後、個人単位で孤立化した私たちが唯一共通言語として扱えるもの、それが「合理性」だという。しかしこれもまた、「現実」と同じように、普遍性の皮をかぶった現状追認に過ぎない。

 

また、トールキンらの描いてきたファンタジーの世界は官僚主義の対立概念の具現化といえる。英雄的な主君の独断による戦争の叙述。それはフィクションとしてはわくわくするものだが、実際にそういう世界で生きていきたいかとなると真っ平ごめん、という世界だ。それよりは、「民主的」で「安定した」官僚制の世界のほうがまだましだ。このようにして、ファンタジーの反官僚制は、転じて官僚制への愛着を高める。けれども、ここで愛着を持つ官僚制──透明性と匿名性に基づいた公正な世界──とは、あくまで理念的なものに過ぎない。現実の官僚制とはそんなものではなく、結局は権力を持った人だけがルールを定め、好き勝手無視することができる。反官僚制的なファンタジー世界の不平等は、そのまま官僚制の世界にも持ち込まれている。

 

ルールそのものというもの自体が「悪」なわけではない。むしろみんなで楽しくゲームをプレイするためには、ルールは不可欠だ。問題は、ゲームのルールの決定権が、著しく偏在しているということだ。ゲームをプレイするにはルールが必要だけれども、プレイには必ずしもルールは要らない。どんなゲームを、どんなルールでプレイするかを決めることも、プレイの大きな楽しさだ。 官僚制は、ゲームを押し付けることだけをして、僕たちにルール作りというプレイを許さない。これこそが官僚制の「悪」だ。

 

僕たちは、小さくてもいいから自分なりのゲームとルールを作っていこう。たぶんそれが楽しい。

いい本だった。まだ補論が残っているけれど。だいぶ満足。補論も『ダークナイトライジング』の悪口らしくて、楽しみ。