2020.08.25(1-p.220)

きょうもハマータウンへ。資本制社会の構造は階級というものを内包している。階級の文化は時と場所を越えて、当事者たちに意識されないままに、構造的に形成され、再生産されていく。


しかしながら、社会のある特定の部位に縛られた人びとが階級の文化を受け入れ、生かし、還流させる過程は、当事者たちにとってはかならずしも階級次元の文化形成過程として認識されているわけではない。同じように、基本的な社会構造上の不平等が、体制の秩序と同化した社会常識の体系を媒介にしてはじめて安定した支配関係として維持されうる事情、人びとが社会のそれぞれの部位に縛りつけられて相互に切り離され相互に対立させられている事情、これらのこともあるがままに認識されているわけではない。それはなぜか。社会を構成する各部所は、それぞれ独自に制度化された固有の関係でうち固められており、そのうえで一定の自治能力を分与されているために、相互に隔てられていると同時に社会システム全体からも隔てられているからである。制度として切り離された社会的部位は、それに固有の行動様式と思考様式をもつ。それぞれがみずからを合法化する固有の教理をもっだけではなくて、その転倒を企てるインフォーマルな動きもまたその部位に固有の現われかたを余儀なくされるのである。 したがって、それぞれに特徴ある部分社会とそこに土着する文化が、客観的には階級としての同質性を分かちあうからといって、それらを階級対立の基底的事実にただちに還元してしまうことは誤りである。部分社会とその文化は、部分的または特定の個別的制度の論理と、それを越えた階級の論理という、二つを同時に並存させている。そして、これら部分社会の内部における独自の闘争がなければ、普遍的な階級の論理も発展のしようがないし、階級文化の内容をより明確に分節化して顕在させることもできない。逆にこのようにもいえる。より大きな階級の論理がなければ、個々の闘争が、他の部分社会や社会・全体とのかかわりにおいてみずからの独自性と普遍性を首尾一貫して了解することもできないのである。
ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠山田潤訳(筑摩書房)p.124-125


マルクスも商品の価値について論ずるとき同じようなことを言っている。商品の価値はおのずから決定されるが、それは交換の過程の中で、その商品の相対する社会的状況や希少性の程度によって構造的に決まるのであって、交換の当事者が意識的に決めているわけではない。
社会的にどんな位置を占めているかによって、客観的には階級としての同質性を分かちあうことはあるだろう。しかし個々人の主観において、それらは別個の経験であり、当事者たちがお互いに同質性を認めるか否かは別の問題なのだ。むしろそれぞれの土着の経験に即すると、構造的には同質である他者にこそ、強い違和を感じることも多そうだ。たとえば、同じ賃労働者としてでなく、自らの仕事を脅かす他者として移民を捉えてしまうようなことが。
土着に自閉することは秘密を持つことだ。あいつらにはわからないことを知っている、という自尊心。現場は管理者を見下し、管理者もまた現場を見下している。彼らの秘密は交わることがなく、だからこそ全体としてうまく機能している。仕事というのは、各セクションの公明正大な協業によって成り立っているわけではない。むしろ協業の無理を、各所の秘密で補っているからこそ回る。全体最適に貢献するのは、全体よりも部分を優先する自閉性であるのかもしれない、と最近は思う。だからすべてを明晰に見通すことが必ずしもいいことだとは思えないが、断絶ばかり強調するのでなく、微かな通路を見出そうとするならば、時と場所を越えて適用できる構造を探すのがいい、という思いは相変わらず強くある。
『ハマータウンの野郎ども』を読んでいると、フィルターバブルというのはただ可視化された現象であって、つねにあったことだと納得できる。そのバブルを、たとえばポールやカールは階級と呼んだわけだ。