2020.08.28(1-p.237)

(…)文化的な事象が単純に外から決定づけられて生み出されるのではない事情に注意を払っておこう。文化なるものは、それを担う新しい世代がつぎつぎにくり広げる主体的な働きかけや闘争の所産でもある。たとえその全体が意識的に統制されてはいなくても、つみ重ねられる集団的な意志と活動には、それ独自の役割がある。それらは「創造性」の働く余地を生み出すとともに、結局のところ、「外的決定因」と称されるものをみずからも更新するのである。文化なるものの主体的な形成過程と、その過程から流れ出るさまざまな人間活動こそが、一般に構造と称されるものの現実的な諸相を不断に生み出しつづけるのである。「外的決定因」なるものがおよそ生きて作用する過程には、そういう主体的な契機が含みこまれていなければならない。外からの厳格な強制力をどれほ ど動員しようとも、個々人が「自由に」ないしは「同意をもって」判断を下すという局面そのものを、強制力で置き換えることはできない。かりにも労働階級の少年たちが進んで手労働に向かう論理をみずから信じるということがないなら、彼らの外部にあるなにものであろうと、改めて彼らにそう信じこませることはできないのだ。少年たちの行動や行く末が社会常識からは低く評価されているだけにとくにそうである。そこには、個々の少年たちのふるまいを導く、彼ら自身の文化が作用しているはずなのである。

ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠山田潤訳(筑摩書房) p.245


POP LIFE:The Podcast にて磯部涼が言っていた。風土と文化は違うんだ、風土はその名の通り時間と共に風のように移ろっていくものだが、文化はずっと続いていくものだから。それを聴いて僕はポールは応える。その通りだ。文化は人の意志と手によって積み重ねていくものだ。しかしそれは自由自在な「創造性」の実現を意味しているわけではない。これまで積み重ねられてきたものによって、文化の形や方向性はかなりの程度規定されている。文化の実践とはゼロから1を作り出していくことではない。連綿と続く1の山の頂にいまひとつ1を置いていくことなのだ。だからこそ、自分のいる場所がどんな形をしているのか、そこにおける選択がどのように規定されているのかを、そもそものところから問い直すことをしなければ、自分にとってはとてもいいものとは言えないような社会構造を、屈託なく肯定するような文化を内面化しすぎることになってしまう。酷暑や感染症によって、ようやく根拠薄弱な根性論のいくつかが見直されてきて、けっきょくここまで追い詰められないと人は文化を捨てられないのか、という思いを強くしている。それは失望でもあり、希望でもある。これまで風土ではなく文化を信じてきた身として。風に負けない建造物も多いはずだ。
ここでは文化と風土の定義をかなりあいまいなままに書いているがそれは僕自身はっきりと線引きできていないからだ。たとえば音楽は文化だが、ライブハウスは風土だったのか、だとか。いやいや、ライブハウスも文化でしょ、と言い切るための理路を、いま僕は持っていないようだった。
こんないい加減な状態で書きっぱなしておけるのが日記のいいところだ。というようなことを僕は日記に何度書いたかわからない。いつまでも同じようなことばっかり言ってる。
 
コクヨ野外学習センターでの現代のブッシュマンの話が面白い。狩猟採集民はけっこうあっさり賃労働を受け入れるけれど、それでも狩猟採集は続いている。ここで、なぜ狩猟採集をやめないのか? と問う人にはむしろこう問い返したい。なぜ、新しいことを始めるからと言って古いやり方を捨てないといけないの? と。そう語る丸山さん──磯部涼は呼び捨てなのにこちらは「さん」出付けなのは何なんだろう、著作を読んだことがないまま声だけ聞くと著者というよりももうすこし近い感じがしてしまうのだろうか、変だった──の明晰さにはっとする。生活の手段は、手段でしかなくて、何だっていいのだ。職業が固定的なアイデンティティになってしまう現状は、一個の特殊であって普遍ではありえない。よく考えれば当たり前のことなのだけど。
どんなに気をつけていても、甲か乙かというような二者択一の思考にあっさり捉われている。いや、捉われてしまうしかないほど、賃労働以外の選択肢が見当たらないというのがいまの事態で、そうした現状認識をマーク・フィッシャーは資本主義リアリズムと名付けたのだった。このあたりでいつも僕は行き詰る。どこかに抜け道はないものか。一つに決めないでつねに可能性を開いておくブッシュマンの気の多さは、突破口にはならないまでも、自分の日々に援用できそうな価値観だった。
しかしブッシュマンの「その日暮らし性」みたいなものは、不安定や予測不可能性を前提としたものだ。たしかに安定や予測可能性というものが信じられなくなっているいま、安定や予測可能性をなによりも大きな報酬とした既存の資本制システムのあり方は決して堅牢なものとは思えない。とはいえ僕は安定や予測可能性が非常に好きなのだということに、COVID-19 によって先々の予定が決められないことに大きなストレスを感じ続ける中で思い知っている。これもけっこう悩んでしまうところ。安定と自由とはトレードオフしかないのだろうか。
 
資本制システムの悪口や不平不満をこぼすのは文字だとすごく簡単にできるが、声にするとすごい難しいということに気づく。僕が一生懸命築き上げている資本制ってイケてないじゃんというフィルターバブルの内側で見えている景色を、奥さんに説明するのはけっこう骨が折れそうだ。このへんの面倒をやってみる場としてポッドキャストの録音を使うのは面白いかもしれない。