2020.09.02(1-p.237)

『ポスト・スポーツの時代』がとても面白い。「ポスト」の定義の仕方がいい。ある概念を消しゴムで消したものの、その上に書くべき概念が未だ見当たらず、微かに残っている古い概念の跡からしか考えられない地平、それが「ポスト」だと。


近代スポーツは主体として個人の規律・訓練によって象られた身体を置いていた。ポスト・スポーツにおいては個人が主体の位置から脱落し、その位置にはデータが置かれる。個人の身体はデータによって制御される客体として置き直されている。個体の動きはデータとしてその個性を捨象され、再現可能な一般性として個体へと還されていく。それは普遍としての理想を己の体において実現せんとする規律・訓練の考えとは馴染まない。流動的な状況がデータ化され、個体とのフィードバックループのなかでつねに移ろい続けていく身体像こそが中心を占めている。本の中ではフーコーからドゥルーズへ、という形で描かれていくこの流れを、僕はフォーディズムからポスト・フォーディズムへという流れのなかで理解する。型通りの大量生産・大量消費の終焉の後、少量多品種の生産が追求されるなかで、逆説的に再現性や予測可能性への欲望が高まっていくこと。


スポーツにおいても、莫大な資本の投入により、予測不可能制や偶然の入り込む余地が切り詰められていく。しかし、そんなスポーツ楽しいか? イチローはそう首を傾げる。僕はスポーツにさほど興味はないけれど、ここで語られていることにはかなり興味があるな、と思う。
身体で考えること、偶然に開かれていること、そんなことが、そういうことが神話化されてしまうのもダサいなと思うけれど、すっかり脱・神話化されてすっかり駆逐されてしまうのもつまらないな、と思っている。なんとなくでいいじゃん、という余地を残しておくこと。