2020.10.26(1-p.325)

昨年の日記を読み返していた奥さんが、さいきんの日記には私へのラブレターみたいなのが足りないよね、と漏らした。とくにマルクスを始めた春以降、僕は社会とか大きな主語から始めてなかなか個人の生活に戻ってこないことが多い。プルーストでなくマルクスなのだからそれはそうだろうが、しかし「狂瀾の中に身を投じて美を求めないからといって、これらのエッセイストを咎めることは誰にも出来ない。静かに生きることはそれほどやさしいことではないからだ。」と庄野潤三も語っているように、ただ社会をまじめに語ることよりも、静かに日々を愛おしむように暮らしていくということのほうが、じっさいやさしいことではなかったりする。僕はいまこそ日々を穏やかに愛でよう。

夕方から下北沢で打ち合わせがあるのでせっかくだから昼はfuzkue でカレーをいただきながらマーク・フィッシャー。ジョイ・ディヴィジョンを聴きながら読んでいた。いまは庄野潤三や、小島信夫や、のびやかでありつつどこか不穏な小説を読むべきコンディションで、マーク・フィッシャーの鬱はあまりにしっくりきすぎて危ないかもしれない。楽しみにしていた山口さんの『誰かの日記』も買った。一月を読んで、やっぱりとてもいいんだよなあ、とちょっとうるっとして、そうしたらもう時間だった。慌てて出て、打ち合わせ。対面であればすぐにすむ用事というのがある。用事自体はだからすぐに終わったような気もして、僕がくったらくったら回収もさせずに拡散させるようなおしゃべりを漫然としていたようにも思うが、それも大事な用事だった。どんどん楽しみになってくる。ペリカンのパンをいただいて、ペリカンのパンは人を幸せにしますからね、とくださって、幸せになった。トートバックに、ほこほこした柔らかさを詰めて帰りの電車に乗った。今度は僕がお礼になにか幸せになるものを差し上げたいなあ、とぼんやりと思って、そうやって誰かのために返礼を考えるのはいい気分だった。

TRICKY の『Maxinquaye』を聴きながら、家路を往く。このくらいの季節の夜道を歩いて、さみしいなあ、と思う。そういうさみしさがあるから人にやさしくしようと思える。忙しかったり、気持ちに余裕がないのがなぜよくないかってこのさみしさがないからだ。ぽっかりと放り込まれた余白の中でしかさみしがることはできない。