2015.03.31

きのうはお芝居を観たあと、劇場の前で即席の同窓会みたいになって楽しかった。
うるさい同期から「お前は『僕とはこのように話してください』みたいな身を守る術だけ上手くなって、防御力だけやたら高くなって、その代わりに攻撃力がほぼゼロになってる」みたいなことを言われてぐうの音も出なかった。
余計なお世話だ。
「ボコボコにしてやるから今度飲みに行こう」と言われてわりと行きたくないけれど、きっと行こうと返事をした。

一年。
自分を広く外に開いていって、なんでもかんでも面白がる。
自分以外の人たちの体や頭を使って考える。
そういうことはとても上手くなったと思う。
それはすこし誇らしくもある。
ただ、たしかに、個としての自分が、誰か個人や、なにかの集団と対峙するために必要な力というは、衰えているかもしれない。
個として尖ることに、魅力を感じなくなってきているのかもしれない。

帰りのタイミングが同じだったのでその晩も同居人と歩いて帰る。
彼女はいきつけのマッサージ屋さんの帰りのようで、そういえばずっと行きたいと思っていたのだった。それほどまでに、毎日のように背中が痛くて仕方なかったのに、いつの間にかそうでもなくなって、昨晩まですっかりマッサージ屋さんのことを忘れていた。
不思議に思っていると「走ってるからじゃない」と言われて、一日おき、15分から20分のいい加減なランニングでも効果があるのかと、驚いた。
運動ってすごいんだなあ。

そんなことが昨日はありました。
今朝は余裕を持って起きる。

駅まで歩く川沿いの道にはすっかり桜が咲ききっていて、今朝は余裕があって天気も良いのですっきりした頭で通勤をする。
待っているのは年度末。
慌しくなりそうだなあと思いつつ、春らしい間の抜けたのんびりした気持ちで会社まで運ばれていく。

たしかに慌しく気がついたらなんの感慨もないまま閉店していた。
夕礼の最中、不意に泣きたくなって、ぼそぼそとお礼の挨拶をする。
これでは伝わらないな。ここがどれだけ好きだったか。
結局最後まで、ふがいないやつのまま終わった。

たいへん格好のいい、諸先輩がたからは「もっと他人に興味を持て」だとか「ここで役に立つにはどうすればいいかを考えろ」だとかこの一年叱責され続け、最後の見送りの言葉もそのようなものだった。
かれらはきっと、たとえばこれまでもスクールカーストの上の方にいて、こうした別れの季節にも、たくさんの贈り物をしあって、泣き笑いで写真を撮って、そういうふうに生きてきたのだろう。彼らのあかるさややさしさは、ほんとうに格好いい。羨ましい。
寄せ書きなんかにもだいたい誰にでも当てはまるようなことや「あんまり話したことなかったけど」なんて書き出しから始まるものが目立つような、そういう生き方をしてきた。
ドッジボールの組み分けじゃんけんでいつも最後から3番目くらいまで避けられて待ちぼうけていた。そういうふうに選ばれないできた。
顧みられなかったり、選ばれなかったりすることに、慣れきっていた。
そのせいで、この一年ただふがいないままだった。
今ぼくは、こういう世界にいるのに。
いつも他人事として見ていた景色のただ中で、送別の品物を受け取りながら、改めて痛感する。
ここにいるからには、暗さはみせちゃいけない。
他人を慮るあまり、沈黙することは金じゃない。
邪魔になるくらいならと、そっと身を引くのは美徳じゃない。
他人のことなんてろくに考えずずけずけ自分を売り込んでいけるネアカバカが愛されるのだ。
わかっているならバカになる方がいい。
愛される者が勝者だ。いかなるときも。
僕はもう随分たくさんの人に愛されてきた。
だから十分だと思っていた。
おれはもういらないから、あとはただ静かにみんなを見守って、慈しんでいたい。
そう思っていた。
なんて、馬鹿なんだろう。
それはただ、僕が暗いやつだったってだけだった。
すくなくとも、ここでは。
ここで正しいとされている振る舞いのうち、いったいどれだけのことが僕の好きな人たちのタイムラインを炎上させないで済むだろうと考えると、なんとも言えなくなるけれど、ここには僕が好きだったような人たちはいない。
ここにはここのルールがある。
よりよいパフォーマンスのためには、愛されることを勝ち取るには、ルールにのっとること。
そこから外れては居場所はない。
そもそも観客の視界にすら入らない。
入らなくてもいいじゃないかとも思う。
それでも、見て欲しい人たちも、客席の中にいるのだ。
伝えたい人たちにちゃんと伝えるためにも、ゲームに参加しなくてはいけない。
わかっている。
わかっているのに、うまく気持ちが乗せられない自分の不甲斐なさが、ほんとうに情けない。

彼らの大半は下品だ。
それでも上品たろうと執着する僕よりもよっぽど正しい。
愛されることに貪欲で、愛されることになんの疑いも挟まない鈍感さが欲しい。
鈍感さを磨いていきたい。
いきたくはない。
でもそもそも鈍感だ。
こういうくだらない逡巡はさっさと捨てたい。
社会人は個として尖るべきだ。
またそういう、承認欲求でぎらぎらするようなところに戻っていくのか。
すげえめんどくさいな。
でも、けっきょく「俺を見て!」と言える人が、好きな人のことをちゃんと見れる。
そういうルールみたいだ。
もう一度、愛されることに飢えてみよう。
これ以上なにを望むんだかと思うけれど、世界中の老若男女のみなさんの八割くらいを虜にするような大人になることを目指して、もうほぼその機能を停止した我が承認欲求を再び鋭利に研ぎ澄ませていこうじゃないか。

明日からあたらしい職場での仕事が始まる。

まったく実感が湧きやしない。