2015.04.05
"明治のころ、有名な上田敏という文学者の訳した、ドイツの詩人カール・ブッセの詩に、つぎのようなものがあります。 山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいう。 ああ、われひとと尋めゆきて、..." http://t.co/l0BVjChKEt
— 町でいちばんの素人 (@AmokGoodish) 2015, 4月 4
「幸福ではない。断じて幸福などではない。快楽だ。」
「自分は大作家ではない。しかし大生活者だ。」
おもしろいのは禅僧をはじめ隠者たちを、社会の煩わしさから逸脱し、自らの快楽を追求する快楽主義者として論じているところ。
やっぱり俺も生臭坊主みたいな、求道者然としたへんてこであぶなげなオヤジを目指したい。
そのときそのときに、面白ければいい。
その場のノリだとか、気になるあの子に振り向いて欲しいだとか、だいたいしょうもない理由でその場の流れに身を任せてきて、運良くいつだっておもしろいところに流れ着いてきた。
思い返せばそういえば、これまでずっとそうやって生きてきた。
これからも、そうやって生きていくしかないだろう。
よくよく考えてみたら、人生のすべての局面において、自分の強い意志でもって決定したことなんて、いっこもないぞ。
ぜんぶそのときどきのノリや、好きな人に褒められそうな方や、あとで話のネタになりそうな方へ、ふらふら流れていった。
その場その場の快楽を追いかけて、いつのまにか、こんなところまできてしまっていた。
会社にいると自分の意思のあるやつが強いから、自分の意思のなさに焦るけれど、意思のないのはこれまでもずっとそうだった。イチローなんかと比べるまでもなく、俺は意思のない人間だった。
自分の意思で、やりたいこともなんにもない。
なんにもないのに、いつでも、こんなにやりたいことがある。
いつだか星座占いをやってもらった時、「やる気スイッチが入ると行動力がすごい。ただ、そのスイッチを自分で押すことができないからいつも誰かに押してもらっている」と言われて、おおお、と感心したのだけれど、さいきんますますそう思う。
誰かの意思や夢や期待でしか、動けないのだ。面白がれないのだ。
これまで「俺の意思とは。俺は何がやりたいのだろう」なんて思い悩んでどん詰まっていたけれど、やっとわかった気がする。
俺に意思なんてない。
いつもそのときその一瞬の快楽だけが欲しい。
その場のノリでしか未来を選べない。
いい加減なこっちゃ。
でもそうなんだから仕方がない。
自分ではなく、誰かに触発されることでしか動けないのなら、自分に閉じこもって自分の意思を探すよりも、その場その場の快楽を、ただひたすら追い求めていくほうが、ずっとうまくいくように思う。
だからこれからは意識的に、いまいるところでの快・不快に敏感になってみようと思った。
主体性を持たず、意思を持たず、流れに委ねて面白おかしく暮らしていくぞ。
いくら遠くまで流されたって、残念ながら俺は俺なんだし。
考えてみると、それだけが、変わらず持っている信念だか信条のようなものなのでした。