2015.04.29
言っていることが定まらない人は、たぶん嘘をついているわけではないのだろう。単純に自分の気持ちを確かめること、そのためにしんどくても考えるということができないのだと思う。気持ちではなく感情でものを決めるから、軸もなく主張や行動が無軌道に変わるのだろう。そしてそれは仕方のないことだ。
— なぎ (@nagi0mig) 2015, 4月 25
このツイートにぎくっときた。
さいきんブログもいい加減だし、考えるよりも感情に流されて暮らしていてはいなかったか。一年くらい前に、考えに考えて、感情や気分に任せて無軌道に生きてやろう、と決めたのも事実ではあった。けれども、やっぱり、気持ちを定めることなく無軌道に生きることは、おもしろくない。ただ、くたびれていく。
そもそも、気持ちのないところに快楽はない。快楽のないところに真の無軌道、デカダンなんてありえないのだ。
もうすこし、ふんばって、しんどいところで考えて、自分の気持ちをしっかり持たなくてはいけない。そこに軸を、自分のこころに、自分の自分のためだけの旗を立てなくてはいけない。
そう思いつつ、きょうも文章書くのめんどくせえな。
何も考えずごろごろしてたい。
今朝は5時半に起きて6時には電車に乗って会社に向かった。
だからもう眠いのだ。
あんまりに疲れて、「あ~つかれちゃったよ~だ」と疲れたの歌を歌いながら、ふらふらと夜道を歩いた。
誰かの視線を感じてやべえ恥ずかしいしにたい、と思っていたら猫だった。
猫ならいい。
気が大きくなって植込みのツツジの花の蜜を吸ってみた。
15年ぶりくらいだろうか。
意外と吸い方が難しい。
2つ花を手折って、すってみるけれど、思い出の中にあるような、べっこう飴みたいな甘さがない。なんだか葡萄の皮を吸っているみたいだ。
蜜を吸っているというより、ただ花びらをすっているような気がしてくる、というか、たぶんそうだ。この青臭い感じはそうだ。
おまけに舌に雄しべだか雌しべだかなんだかがくっついてきて、すわ虫かとびびって3つめには挑戦できずじまいだった。
考えなくては、気持ちをしっかり明らかにして、軸を持った人間にならなくては。
そう思った矢先にこれまでで一番頭の悪そうなしょうもないことを書いている気がする。
まあいいや。
もうたぶん、一生ツツジの花を吸うことはないだろう。たぶん。