2015.05.01

おそらく年をとればとるほど分別はなくなるし、頭は固くなるし、自信もなくなるし、やさしくもなくなる。
いろいろなことを知らずに済ませることはむつかしいし、知ってしまったことを考えないでいることはむつかしい。
どんどん辛くなる。どんどんさみしくなる。
へっちゃらでいられたことが、耐え難くなる。
大人になったらへっちゃらになると思っていたことが、どんどんへっちゃらじゃなくなる。
こどものころ怖くて仕方がなかったことが、もっと怖くなる。
こどものころ当たり前に守れていた「信念」や「正しさ」すら、相対的なものだと知って絶対視できなくなる。
こどものころ転ばずにまっすぐ歩けた道で、いちいち迷い、立ち止まり、うずくまる。
もう、なにひとつ、満足にやりとおせる気がしない。

周りの人たちの視野の狭さや余裕のなさに、「なーんでもっと肩の力を抜いてうまいこと生きていけんかねー」なんて思っていたけれど、なんてことはない。
彼らはみんなただ一生懸命で、いっぱいいっぱいだったのだ。
余裕なんてあるわけないし、自分を好きでいられるわけもない。視野も広げられはしないだろう。
だって必死に、正直に生きているんだから。
それは仕方がないだろう。
仕方がないことなんだなあ。
そんなことが、ようやく理解できるようになった。
そのくらい、自分も余裕がなくなってきた。
おかげでいろんな人の気持ちや都合を考えられるようになってきたけれど、それがいいことだとはやっぱり思えない。
今の自分が、自分にとってまったく魅力的じゃないからだ。
いまでも自分に対して「なーんでもっと肩の力を抜いてうまいこと生きていけんかねー」と思ってる。
余裕がなくなるくらい一生懸命に生きて、人の気持ちを考えるようになったって、それってただばかになっただけだぜ。
それでは、むしろ自分のことでいっぱいいっぱいになってるだけだ。
わかって何もできないよりも、わかんないままなんかできちゃってたほうが、良かった。
自分を相手に売り込むことも考えられず、相手に自分がどう思われるかを気にするなんて、阿呆くさい。
他人は自分の意思が通用しないから他人なのだし、そこに軸足を置くべきじゃない。
俺はどうしたいんだ。
健全な自分のためだけの欲望を取り戻す必要がある。

もちろん、他人とのコミュニケーションに追い詰められて自分を見失うほどに自分のことにいっぱいいっぱいになることは悪いことばかりではない。
見失って、くじけて、なんとかしようと奮起して、ようやく我に返ったころには、これまでよりもずっと「ひとりぼっちだ」という気持ちになれたからだ。

「ひとり」である強かさがないと人に触れることはできないというか、してはいけないのかもしれない。
あんたが救われたいってだけなんだったら安い共感とか本当にいらないし、触んなって思うよ。

共感なんかされたくもないし、したくもない。

ただ、お互いに、居心地の悪さを感じることなしに、穏やかに過ごすことができたなら、それはどれだけいいことだろう。