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2015.12.08

「そのくらい言わなくてもわかるでしょ」「このくらいは察してくれよ」というのは大人になるにつれ通用しなくなる。「そのくらい」という「常識」は極私的な経験則に過ぎないから、まるきり違った何十年を生きてきたもの同士があっさりと共有できるものではない。

ガキがなにか悟ったように正しそうなことを言って、「世の中馬鹿ばっかりだ」と超然としていられるのは、経験が乏しいからだろう。自分の歩いてきた道のりからたどり着けそうな「正解」以外にも、いく通りもの道程と「正解」がありうるのだということを想像することができないからだ。

それは仕方がない。想像力というのも経験によって磨かれていくものだから。

そして経験というのは共有ができない。わかりきっているようなことでも、やってみて、体感しないとやっぱり「わからない」のだ。

ものごとに対する目の付け所や感度だって人それぞれまったく違う。誰かが目くじらを立てたことを「そんなこと」と受け流す前に、その怒りに至るその人の文脈を推し量る。どうせわからない。そんなにすぐわかりっこない。わからなくとも投げ出さずに、なにか自分とは違う道程があることを忘れない。

忘れずに気に留めておくといつの日か「そんなこと」が「そんなこと」じゃなくなる。人と丁寧に向き合うというのは、お互いの常識というものが単なる幻想であることに気がつくこと。そしてその幻想をお互いの落ち着ける形に書き換えていくこと。それはとても時間と手間がかかる。

「長く一緒にいる」というのはだからものすごいことだ。ちゃんと手を抜かず一緒にいたら、わかっちゃったり、察せちゃったり、たまにだけど、するんだもの。自分のいたくないところに我慢して留まっていると、いつの間にか自分も嫌な人間になっていくというのも、「長く一緒にいる」おそろしさだ。

誰と一緒にいるかというのは、ちゃんと選ばないといけない。ちょっとでも好きでいれそうな自分でいるために、嫌いな人とはうまく距離をとるべきだし、好きな人とちゃんと一緒にいなくっちゃ。

一緒にいるうちに、好きな人と自分と照らし合わせてなんて自分は醜いんだろうと落ち込むことも、なんてこの人はだらしがないんだろうと憤慨することもありそうだ。そうしたとき、見て見ぬ振りで誤魔化さずに、けれども深刻にもなりすぎずに、お互いのズレをひとつひとつ手にとっては眺め回していく。そうやって少しずつ、好きな人の経験を、ほんのりとでも、自分のもののように錯覚していきたい。そうやって、一緒にいる人とだんだん似てきて、おなじような「常識」に惑わされるようになっていく。より自分にとって魅力的な自分になっていく。好きな人と一緒にいるというのはそういうことだと思う。

いま心配で仕方がないことは、このまま好きな人と一緒にいると、自分のことを好きになりすぎて、死ぬのが本当に嫌になりそうだということ。

いま、すでに死ぬのがけっこういやだ。