2017.09.14

思い返すと一人暮らしに限界を感じてシェアハウスに引っ越したころから貧乏ゆすりや小さく奇声をあげることが少なくなった。一人暮らしの頃は家のなかでなにをしていてもどちらか片方の脚がガクガクしてたし、気がつくとアウウウウムウウウとうなり声のようなものが漏れていた。あのまま一人で暮らしていたら家の外でもアウウウウムウウウとしていたかもしれないと思うと笑えない。さすがに六、七人で暮らしているうちは、そうした奇声も他に誰もいないような時間にトイレの中にいるときしか発しなくなった。

 

貧乏ゆすりのくせはなかなか治らなかったけれどシェアハウスを出て奥さんと暮らしだしてからはまったくなくなった。「それやめて」とものすごく嫌な顔で言われたので、それがあまりにも嫌そうだったので、嫌な気持ちにさせるのは嫌だなと思いやめた。案外やめられるものだ。いまもこうして書きながら、貧乏ゆすりへのやむにやまれぬような衝動をかすかに思い出すものの、もうガクガクやろうという気持ちにはならない。

 

貧乏ゆすりや奇声がなくなったぶん、twitterを眺める時間が増えた。放置していたほかのSNSも、そんなに熱心に更新はしないもののだらだらと流し読むようになっている。あんまり楽しい時間の使い方じゃないなあと思いながらも、一人でアウウウムウウウとうなっているよりは不意に面白そうなイベントや感心するような考え方や確かにいま立ち止まって考えるほうがよさそうな記事だったりに出会えるからまったくの無駄というわけでもないような気がしてしまうからタチが悪い。

 

SNSを眺め偶発的な面白いこととの出会いを漫然と待つことは、「気晴らし」という意味では貧乏ゆすりや奇声とそう大差はない。

ラース・スヴェンセンの『働くことの哲学』を読んで、仕事や社会福祉に対する呑気なポジティブさに、俺が読みたいのはこういうことじゃないなあと思いながら、それよりも、ほんの数年前のある時代や、かの国と日本の状況の落差にがくぜんとする。

スヴェンセンの名前を知ったのは國分功一郎『暇と退屈の倫理学』で、これはとても好きな本で、増補版が出ていて買い直したいのだけどひとまず手元にあるものを読み直しながら、これを補助線として『退屈の小さな哲学』も手に取ってみる。

 

いったん話は横道にそれるけれど、國分功一郎の『中動態の世界』もとんでもなく良い本だった。この人のように難しそうな人たちが取り組んできた大切な事柄について易しく広くひらいてくれる著述というのはほんとうにありがたい知性であると思う。難しそうな人たちが当然とするコンテクストをいちいち参照して追っていくのはとても骨の折れる作業で、そこまでする体力はもう僕には残っていないように思うからこそ、日常の言葉のレベルから、順を追って話をしてくれる本に出会うとあたらしい友達ができたように嬉しい。その嬉しさに励まされて難しい人たちの著述もかじってみる活力も得られる。

ものを書くときはなるべく誰にだって自明のことなんてなにひとつない、という立場であるほうがいい。

このことの重大さは、会社勤めを初めていっそうつよく実感するようになった。

あるひとつの言葉をとっても、その言葉の背景に思い描く像はひとりひとり笑っちゃうくらいバラバラなのだ。そういったバラバラに散らばった背景を丁寧に整理しながら話のできる人をみると知的というのはこういうことをいうのだなと素直に思う。

 

脱線が過ぎた。

「気晴らし」の話だ。ここでいう「気晴らし」とはスヴェンセンや國分の退屈論で使用される意味での「退屈から目を背けるための行い」としてのものだ。

毎日は大体なんとなく退屈だ。眠るまでの時間はのろのろと進み、なにか時間を忘れて熱中できることがしたいと願う。けれども実際のところなにか行動を起こそうという気持ちにもなれないでいる。テレビは嫌いだからつけない。もう習慣づいてしまっているからiPadに手を伸ばし、twitterをひらく。きょうも誰かが何かを書いている。twitterのいいところはなにかあたらしい活字が読めるということだ。幼少期から活字中毒者で、テーブルの上のチラシや新聞なぞのインテリアに印刷された意味をなさない英単語の羅列に至るまで片っ端から読んでいた。そういう人にとってtwitterはとめどなく読むものを供給してくれるおそろしい装置だ。そうしてとうとうタイムラインを遡りきって、ふといまやっていることはなんて退屈なんだと思う。俺はtwitterに耽りながら、その「気晴らし」のただなかで退屈している。自分の中に起こった退屈をまぎらわそうと空虚な時間つぶしに耽っていると、いつしか自分がその空虚で満たされている。退屈に対処していたはずの自分が、いつのまにか退屈な存在になっている。

スヴェンセンも國分も、ハイデッガーを引きながらこういう退屈について論じている。ハイデッガーにとってtwitterはパーティだった。一人暮らしの僕にとってそれは貧乏ゆすりであり奇声であった。これらの「気晴らし」は、『暇と退屈の倫理学』の立場をとると、あまり褒められたものではない。楽しくないからだ。

退屈を論じた両者は共通して人は退屈というものから逃れることはできないと言う。

國分はさらにここから一歩踏み込んで、人は退屈に際して「気晴らし」という楽しみが創造できるのだと言う。だからこそ、暇という余剰から生み出されるものを楽しむ技術や作法を身につけようというようなことを提言している。僕はこれがとても素敵だと思う。帯文にも引かれているように「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」のだ。

 

twitterは「気晴らし」ではあるけれど、それで生活を飾りたいとは思わない。

スナック菓子にはなりえてもバラではないのだ。

これは「twitterなんか意味のないものに耽ってないで、もっとこう生産的なことをしようよ」という主張では断じてない。

スヴェンセンの『退屈な小さな哲学』と『働くことの哲学』に共通して言われることは、意味を求めるロマン主義的な考えに囚われていることこそが諸悪の根源だということだ。

確固たる意味のあるものなぞなんにもないのに、意味を求めるから人は退屈する。

「自分の人生にとってtwitterを眺めるだけのこの時間とはなんだろう」などというむなしい気持ちは、自分の人生に意味があるという考えを捨て去れないからこそ起こってくるものなのだ。

「自分はこのまま、モチベーションも愛着もないこの仕事にだらだら就いたままでいいのだろうか」と悩むのは、自分には社会にとって意味のある仕事を成し得るという思い上がりや、仕事を通じて追求する意味や実現する自己などというものがあるという信仰が見せる幻想に過ぎない。

とはいえ僕らがどっぷり浸かってきたロマン主義を捨て去ることはできないだろう。

だから、いまある悩みのだいたいはロマン主義という信仰による認知の歪みであることを自覚しつつ、ぼちぼちやっていこうよ、とスヴェンセンは言っているようだ。

僕はこの考えにもほっとさせられる。

意味なんかなくてもいいのだと思うと、会社にいるあいだなにひとつ面白いことのないことに対して、へんな罪悪感や物足りなさを感じずに済むかもしれない。

 

twitterは「気晴らし」にはなるが楽しくはない。

仕事に関しては「気晴らし」にすらならない。

さて、僕が創造すべきバラとはどんなものかしらん。

最近はそんなことをぼんやりと考えていて、なるべくtwitterを控えて本を読むようにしている。そうするとこれがまた楽しいんだ。読みそして書くという一連の行為はそれ自体大きな喜びであって、生活を飾るバラだ。

もう思い切ってtwitterをやめて、空き時間にはどんどこ本を読もう!

 

そう思ってtwitterをひらくとぐっとくる文章に出会ってしまった。

 

 

"Keyif"なんていい言葉だろう。

暇はそれ自体で退屈なものではない。

暇そのものを愛でること。

暇そのものがバラであること。

そう、「何もしない」というのは「至福の行為」なんだ!

 

ここで僕は小学生の頃からのバイブル、ベンジャミン・ホフの『タオのプーさん』を本棚から引っ張り出す。

僕はいつも興味関心がころころと移り変わりひところ熱中しては飽きてしまう自分は、そうやってめまぐるしく変化しているのだと思っているのだけど、気がつくといつもこの本に立ち戻ってしまう。

きょうはこの本を引用しておしまいにする。

「それにしても、プー、きみはどうしていそがしくないの?」と、ぼくはいった。

「だって、いいお天気なんだもの」と、プー。

「それはそうだけどーー」

「だったら、ぶちこわすことないでしょ?」

「でも、なにか大事なことしたっていいじゃないか」

「してる」と、プーがいった。

「え?なにしてるの?」

「聞いてる」

「なに聞いてるの?」

「鳥とねえ。あっちにいるあのリス」

「なんていってる?」

「いいお天気だね、って」

「それだったら、もうわかってるじゃないか」

「でも、だれかほかのひともおなじ考えだってこと聞くの、いつだってうれしいもの」と、プーは答えた。

「でも、時間の使い方としては、ラジオを聴いて勉強するっていうのもあるんだぜ」

「そこのやつ?」

「そう。それ以外、どうやって世の中で起こってることを知るのさ」

「外へ出れば」と、プーがいった。

「う……そりゃ……」(カチッ)。「まあ、これを聞いてごらんよ、プー」

「本日、ロサンゼルスのダウンタウン上空で、ジャンボ旅客機五機が衝突、三万人の死者が出ました……」と、ラジオからアナウンサーの声が流れた。

「それで世の中のなにがわかるっていうの?」と、プーがきいた。

「フム。それもそうだ」(カチッ)

「鳥はいま、なんていってる?」と、ぼくはきいた。

「いいお天気だね、って」と、プーがいった。

やっぱりまったくこれはいい本だ。

こうやっていろいろなことを思い出させてくれるからtwitterはやめられないよね。

 

「それで世の中のなにがわかるっていうの?」

 

なにもわからないよ、でも、「だれかほかのひともおなじ考えだってこと聞くの、いつだってうれしいもの」