2017.11.17

若くてはつらつとしていることの価値、というものがある。
なぜだかこういう話は女性の話としてばかりなされるけれど、もちろん生まれてこの方老いたことしかないすべての生物にとって関係できる話だ。
なぜだか、と書いたが理由はある程度はっきりしている。
男のほうがいつまでも若くあるという幻想を抱きやすいような構造がいまの世にはある。
そのことのナンセンスさについては僕よりもうんと上手く言葉にできる人たちがたくさんいるだろうし、そこに連なろうとするには僕の持つ怒りはあまりに小さく、思慮はあまりに浅いように思うのでこのあたりで黙る。

ともかく、「わたしが一番きれいだったとき」は、僕にも確かにあった。
そしてそれはすでに過ぎていった。
そういう話をきょうは書きたい。

子供のころは自分と同世代の人間がテレビに出ているのを見ると虫唾が走った。
僕としては芥川賞の最年少受賞者になる予定であったし、世界一周を成し遂げた偉大な高校生として全国の講演会に引っ張りだこになる予定であったから、そうならなかったことをはっきり突きつけられるようでほんとうにいやな気持になった。
一番嫌いなテレビ番組は「天才てれびくん」。
理由はもちろん、あの番組のどの出演者よりも僕のほうが知的で思いやりにあふれているにもかかわらず、僕はレギュラーどころか挿入されるちょっとしたVTRにすら出る機会に恵まれなかったからだ。

就職してすでに四年目だ。
いい加減、自分がもう「いちばんきれい」ではないことを認めなくてはならない、というか、もうぜんぜん「きれい」でもないし、そもそも最初から人から尊敬されるような大したものなんて何も持っていないという事実から目を逸らすのがきつくなってきた。
こういうことを認めることは、僕の繊細な自意識からすると大変苦しいことだけれど、いったん開き直ってしまえばこんなに楽チンなこともない。
なーんでもない「ふつう」から、気長に始めてみればいいのだ。

僕は最近「なにかするにしても、30後半くらいからだな」と思っている。
これからの十年は、興味の赴くままに本を読み足を伸ばし、自分を育てていきたいと思う。
それは僕を糠床ととらえ、捨て漬けをし、毎晩かき混ぜるような気持ちなのだ。
そうやって自分の中にとりこんでいったものに、この体が糠床のようにはたらいて、誰かを喜ばすことのできるものが発酵してきたらいいなと思う。
残りの若さを仕込みの時期として捉えなおすことができて、いまはとてもいい気分だ。

「だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね」