2018.1.10

左手の日に日に細くなっていく薬指にかろうじてひっかかっている指輪をさっきまじまじと見つめてみたら、これはなんてかわいい指輪なんだろうと改めて感心してしまった。

この指輪に決めた日からたぶんもう二年以上が経っているはずで、結婚でもしてみるかとなってからわりと早い段階でこれと決めて我が家にお迎えした。とたんに、はやくこれを嵌めたいという気持ちが起こって入籍の日取りを早めたくらいだった。

こんなことを思うのは、つい二三日前に指輪をなくしかけてヒヤッとしたからかもしれない。
ヒヤッとする事態はそれで二度目だった。
たぶん僕はモノに愛着こそ持てども執着はしない性質のようで、なくしたかもしれないと気がついたとき、一度目ほどはショックが強くなかった。
一度目は「自分は大切なものをうっかりなくしてしまうような人間だったのか」というショックが大きかったけれど、いまではもう自分は大切なものをうっかりなくしてしまいかねないと知っているのでそういう類のショックはもう大きくはない。
それでもやっぱりショックは受けていたのだけれども、それと同じくらいの強さでもって「次はどんなのにしようかなあ」という考えが浮かんでいた。

モノは個人的な情報の記録や伝達、保管のためのメディアであって、なくしてしまったら自分の身体にバックアップが残っているうちに替わりのものを手にすればいいのだと思っている。

とはいえ、そのモノにしか媒介できない情報というのもたしかにあるだろうから、替わりのモノに付与されるのはかつてあったモノがいまはないという喪失の情報だろう。
そうした喪失の情報それ自体がメディアとなって、かつてそのモノが媒介していた情報を媒介する。

きのうイーガンの『ディアスポラ』を読み終えて、すっかりSF気分だ。
昨年のはじめごろに夢中で読んだ清水博『生命を捉えなおす』が、今年のSF気分の育つ土壌を耕していたのだなと気がついた。
本を読むことは、他者を自分のうちに受け容れるということだ。
他者との混濁から、あたらしい自分の相貌が表れてくる。

あたらしいアプリに対応するためにOSをアップデートするようなものだろうか。
アップデートしたOSでは、これまで想像もしていなかったものやことを、それまで想像もできなかった方法で走らせることができる。
そうやって自分をどんどん書き換えていく感覚は楽しい。

いまはとにかく手当たりしだい他者と交わって混濁したままの状態だ。
ここから上澄みを掬うように、これからの自分を、ある程度安定した形に決め込んでいかなくては日常生活に支障が出てきそうな予感がある。
溜め込めるだけ溜め込んだら、そこから何を捨てるかが自分をつくる。
自分の身体というメディアに溜め込める容量には限界がある。
けれども捨ててしまえば、その捨てたという情報それ自体が、あたらしい情報のメディアになる。「あれを手放した」という記憶それ自体が、外部記憶装置となるのだ。

手放すことは、拡張することなのだ。

今はなんだかそんなような気持ちでいる。
とりあえず、なるべく指輪はなくさずにいたい。