2020.07.29(1-p.187)

朝の電車では久しぶりのマルクス。読めば面白い。貨幣の話に入ってきた。マネー。測り過ぎると、測定基準がまるで所与の価値のように勘違いされがちだが、価格と価値とは別物なのだという話。投入された労働力の抽象化されたものとしての価値と、交換価値とを分けて読んでいくのさえ気をつけていけば、いまのところ難しい話ではない。ゆっくり慎重に読んでいく。会社についてからお弁当を忘れたことに気がつき、すっかり気持ちが折れてしまったので午前中にこっちでやること終わらせて、午後は在宅にしようと決めた。

仕事中はオムラジを聴いていた。お便りが読まれるとのことで、くすぐったいような気持ちで聴いた。自分の書いた文字が誰かに声に出して読まれ、さらには応答もあるというのは、文字だけでのやり取りとは異質な何かがあって、やっぱり声はいいなあ、と思った。はじめに文字があるか、声があるか、人によって体質が違っているというようなことが言われていて、僕は文字から、青木さんは声からなのではないか、というようなことが話されていた。それは抽象から始めるのか、具体から始めるのかという違いかもしれない。しばしばおくらの挙動で中断が入るのがすごくいい。本筋とは関係のない介入を、ノイズとして排除するのでもなく、完全にペースを明け渡してしまうのでもなく、適当に受け入れつつ受け流していく。このありかたに端的にお二人のスタンスが表れているように思える。これもまた、文字化に馴染まない具体的な振る舞いから伝わってくるものだった。 寅さんも声の人だ。徹底的に具体的で、抽象化を嫌う。寅さんは文字ドリブンのインテリ的な考え方では理解できない。文字を書く前にとにかく具体的に動いてみる。インテリ的な発想ではそういう寅さんが多動に見える。寅さんからすれば、何でもかんでもいちいち言葉で整理してしまうほうが野暮天だろう。そんなことも話されていて、うんうん、と聴いていた。白井聡の寅さん論に対する違和についての話も面白く、このあたりはぜひお話ししたい。僕は寅さんの「わからなさ」こそが重要だと思っていて、このへん青木さんとお話してみたい。ここまで書いておいてあれだけど、声には声で応えたいような気もして、次に録音するポイエティークRADIO で一度話してみようかと思う。オムラジ内でも言われていたように、声は、まだはっきりとわかっていないこと、洗練されきっていないものを、モヤモヤしたままに何となく出して、なんとなく伝えるみたいなことができるのがすごい。

夕方になって、ダライ・ラマのファーストアルバムを流しながら、再度オムラジを聴いて、どう応答しようかな、とメモを取る。ポッドキャストに音楽をつけるか否かというので、つけたほうがホワイトノイズを誤魔化せていいんじゃないかと奥さんは言っていたけれど、聴く方がこうして好きに音楽をつけれるのも僕は好きだ。