2017.10.12

本を読んでいられるあいだは気分がいい。
図書館に通うようになってからどんどん本を読むようになった。

これまでは本というものは買わずにはいられないものだった。
それは自分の本棚に収めてまいにちその背表紙を眺めるともなく眺め続けることに意味があると思うからで、本というのは実際に読んだか読まなかったかはそこまで重要ではない。
自分の本棚にそんな本があるのかが大事なのだと思う。
本棚は庭いじりみたいなものだ。庭をいじったことはないので本当のところはわからないけれどきっとそうだ。
自分の関心ごとがかつてどこにあり、今どのあたりにあるのか。本棚の配置をいじりながら、その本棚の持ち主は自分自身を分解し、点検している。
過去あんなに熱中した一冊がいまいち今の本棚の雰囲気にそぐわなくなっていたり、古本屋のワゴンで叩き売られていたというだけの理由で買っておいた一冊がいつのまにか意味ありげな存在感をたたえていたりする。
自分の本棚をいちばん格好いいと思っているのも、いちばんわくわくする並びだと思っているのも、僕自身だ。
本棚は、かつてそうありたかった未来、またはいまだ焦がれ続ける憧れの在り方の見立てなのだから。

新しい本を迎え入れた時、その一冊によってそれまで保たれていた棚の中の均衡が崩れ、それぞれの一冊がまたあたらしい関係を取り結びながらあらたな均衡が立ち現われていく快感はなにものにもかえがたい。
本棚に新しい本を迎え入れる行為は、それまで想像もできなかった未知に出会う予感であったり、探検せずにはいられない謎を発見する喜びであったり、つまり自分が新たに作り替えられる可能性に満ちている。
読みたい本を買うのではない。「こういうふうになっていくといいな」という理想の在り方を立ち上げるためにこそ、本を買うのだ。
「こうありたい」という理想をモノに託して見立てていくというのは、先に書いたように庭づくりでもいい。盆栽でもいい。彫刻でも音楽でも、なんだっていいだろう。僕にとってはそれが本棚だったというだけのことだ。
本を買うということ、それは僕にとって本棚づくりという無上の「見立て」遊びそのものだ。
僕は本を読むのが好きなのではなく、本を所有し、レゴ遊びのように自分の生活の文脈にあわせて組み立てては壊しまた作り替え、そうやって自分だけの思索の場所を育てていくことが好きなのだ。
最近は発酵にハマっているので、このような本棚との関係のありかたがまるで「糠床」のようだとも思う。捨て漬けをしたり、定期的にかきまぜたりしながら、時間をかけて「うちの味」を醸していく楽しさよ!

以上が、僕が本を買い続ける理由だ。
けれども僕は三流以下の道楽者なので、懐具合や住宅事情を無視してまで遊び倒そうなんて豪気に構えることはとてもじゃないができない。
盆栽の置場もないからと苔盆栽に自然を見立てる喜びを見出すように、僕の「糠床」は本棚から僕の頭の中やノートの中へと場所を移し始めている。
だから八月のあたま頃から、僕は図書館に通うようになった。
するとどうだろう。
僕は本を読むようになったのだ。
もともと今年度は仕事もひまなので、比較的本を読むようになっていた。
とはいえ四月から七月までのあいだに読み終えた本は十冊程度だった。
それが図書館に通いだしてからの二か月では十五冊もの本を読み終えている。単純計算で三倍速だ。
僕は速読というものができないし、むしろ遅読であることに誇りをもっているくらいだ。
今でも遅い。一冊に少なくとも三日はかける。図書館の本は延長に延長を重ね、はじめのころに借りたものでもまだほとんど読み進んでいないものもある。だから読むスピードが三倍になったのではなく、読んでいる時間が三倍になったのだ。
僕は、「年収も恋人もなんでもかんでも多ければ多いほうがいい」というような、量がないと充実を感じられないような価値観からも距離をとっていたいと思っている。
だから、ふだんの三倍もの時間を読書に使っていることについても、「だからなんだ」で済ませたほうがよさそうな話だけれど、でも、自分比三倍の読書量ってすごいな、と思って、ついこうして書いておきたくなったのでした。大学生のころだって、こんなに本を読んでいたかと問われたら怪しいくらいだ。

手元に残らない本は読むしかない。それ以外に関係を持ちようがないのだ。
たったそれだけのことで、こんなに本を読むようになるとは思わなかった。
そしてわかったことがある。
本は、読むと楽しい!
読めば読むほど自分の頭の中の「糠床」がどんどんかき混ぜられて、どんどん美味しくなっていくのを感じる。読んでいるうちにまた読みたい本が増えていく。考え事が活発になり、知りたいことが無尽蔵に広がる。そうか、本って読んでも楽しいものだったのか。
レゴのように遊び、眺めているのとはまたちがった気分の良さがある。
「糠床」を外に見立て遊ぶのではなく、僕自身が「糠床」になる快感とでもいおうか。

本読む僕は「糠床」なので、ひととのお喋りもいい感じに醸される。
いや、これについては僕の話し相手はもっぱら奥さんなので、ぼくが一方的に気持ちよくまくしたてているだけで、それを好きなようにさせてくれている奥さんこそが「糠床」なのかもしれない。
ともかく最近はちょっと本にかまけすぎているので、この気分の良さをほかの人にも上手に振りまけるようないい塩梅を見つけたい。
これから仕事も忙しくなるけれど、本を読めるだけの気持ちの余裕は確保しておきたい。
それは誰よりも大事な自分自身の幸福のために、絶対にさぼっちゃいけない努力と工夫だ。

そして、読む楽しさを思い出せたいま一層つよく思うのは、やっぱり良い本は手元に置いておきたくなるということ。
佐々木正人アフォーダンス』、ブコウスキー『ポストオフィス』、高野秀行『謎のアジア納豆:そして帰ってきた“日本納豆”』の三冊は、きっといつの日か僕の本棚にお迎えしたいと思っている。それぞれどんな本の隣に置きたいか、もう考えてある。

2017.09.14

思い返すと一人暮らしに限界を感じてシェアハウスに引っ越したころから貧乏ゆすりや小さく奇声をあげることが少なくなった。一人暮らしの頃は家のなかでなにをしていてもどちらか片方の脚がガクガクしてたし、気がつくとアウウウウムウウウとうなり声のようなものが漏れていた。あのまま一人で暮らしていたら家の外でもアウウウウムウウウとしていたかもしれないと思うと笑えない。さすがに六、七人で暮らしているうちは、そうした奇声も他に誰もいないような時間にトイレの中にいるときしか発しなくなった。

 

貧乏ゆすりのくせはなかなか治らなかったけれどシェアハウスを出て奥さんと暮らしだしてからはまったくなくなった。「それやめて」とものすごく嫌な顔で言われたので、それがあまりにも嫌そうだったので、嫌な気持ちにさせるのは嫌だなと思いやめた。案外やめられるものだ。いまもこうして書きながら、貧乏ゆすりへのやむにやまれぬような衝動をかすかに思い出すものの、もうガクガクやろうという気持ちにはならない。

 

貧乏ゆすりや奇声がなくなったぶん、twitterを眺める時間が増えた。放置していたほかのSNSも、そんなに熱心に更新はしないもののだらだらと流し読むようになっている。あんまり楽しい時間の使い方じゃないなあと思いながらも、一人でアウウウムウウウとうなっているよりは不意に面白そうなイベントや感心するような考え方や確かにいま立ち止まって考えるほうがよさそうな記事だったりに出会えるからまったくの無駄というわけでもないような気がしてしまうからタチが悪い。

 

SNSを眺め偶発的な面白いこととの出会いを漫然と待つことは、「気晴らし」という意味では貧乏ゆすりや奇声とそう大差はない。

ラース・スヴェンセンの『働くことの哲学』を読んで、仕事や社会福祉に対する呑気なポジティブさに、俺が読みたいのはこういうことじゃないなあと思いながら、それよりも、ほんの数年前のある時代や、かの国と日本の状況の落差にがくぜんとする。

スヴェンセンの名前を知ったのは國分功一郎『暇と退屈の倫理学』で、これはとても好きな本で、増補版が出ていて買い直したいのだけどひとまず手元にあるものを読み直しながら、これを補助線として『退屈の小さな哲学』も手に取ってみる。

 

いったん話は横道にそれるけれど、國分功一郎の『中動態の世界』もとんでもなく良い本だった。この人のように難しそうな人たちが取り組んできた大切な事柄について易しく広くひらいてくれる著述というのはほんとうにありがたい知性であると思う。難しそうな人たちが当然とするコンテクストをいちいち参照して追っていくのはとても骨の折れる作業で、そこまでする体力はもう僕には残っていないように思うからこそ、日常の言葉のレベルから、順を追って話をしてくれる本に出会うとあたらしい友達ができたように嬉しい。その嬉しさに励まされて難しい人たちの著述もかじってみる活力も得られる。

ものを書くときはなるべく誰にだって自明のことなんてなにひとつない、という立場であるほうがいい。

このことの重大さは、会社勤めを初めていっそうつよく実感するようになった。

あるひとつの言葉をとっても、その言葉の背景に思い描く像はひとりひとり笑っちゃうくらいバラバラなのだ。そういったバラバラに散らばった背景を丁寧に整理しながら話のできる人をみると知的というのはこういうことをいうのだなと素直に思う。

 

脱線が過ぎた。

「気晴らし」の話だ。ここでいう「気晴らし」とはスヴェンセンや國分の退屈論で使用される意味での「退屈から目を背けるための行い」としてのものだ。

毎日は大体なんとなく退屈だ。眠るまでの時間はのろのろと進み、なにか時間を忘れて熱中できることがしたいと願う。けれども実際のところなにか行動を起こそうという気持ちにもなれないでいる。テレビは嫌いだからつけない。もう習慣づいてしまっているからiPadに手を伸ばし、twitterをひらく。きょうも誰かが何かを書いている。twitterのいいところはなにかあたらしい活字が読めるということだ。幼少期から活字中毒者で、テーブルの上のチラシや新聞なぞのインテリアに印刷された意味をなさない英単語の羅列に至るまで片っ端から読んでいた。そういう人にとってtwitterはとめどなく読むものを供給してくれるおそろしい装置だ。そうしてとうとうタイムラインを遡りきって、ふといまやっていることはなんて退屈なんだと思う。俺はtwitterに耽りながら、その「気晴らし」のただなかで退屈している。自分の中に起こった退屈をまぎらわそうと空虚な時間つぶしに耽っていると、いつしか自分がその空虚で満たされている。退屈に対処していたはずの自分が、いつのまにか退屈な存在になっている。

スヴェンセンも國分も、ハイデッガーを引きながらこういう退屈について論じている。ハイデッガーにとってtwitterはパーティだった。一人暮らしの僕にとってそれは貧乏ゆすりであり奇声であった。これらの「気晴らし」は、『暇と退屈の倫理学』の立場をとると、あまり褒められたものではない。楽しくないからだ。

退屈を論じた両者は共通して人は退屈というものから逃れることはできないと言う。

國分はさらにここから一歩踏み込んで、人は退屈に際して「気晴らし」という楽しみが創造できるのだと言う。だからこそ、暇という余剰から生み出されるものを楽しむ技術や作法を身につけようというようなことを提言している。僕はこれがとても素敵だと思う。帯文にも引かれているように「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」のだ。

 

twitterは「気晴らし」ではあるけれど、それで生活を飾りたいとは思わない。

スナック菓子にはなりえてもバラではないのだ。

これは「twitterなんか意味のないものに耽ってないで、もっとこう生産的なことをしようよ」という主張では断じてない。

スヴェンセンの『退屈な小さな哲学』と『働くことの哲学』に共通して言われることは、意味を求めるロマン主義的な考えに囚われていることこそが諸悪の根源だということだ。

確固たる意味のあるものなぞなんにもないのに、意味を求めるから人は退屈する。

「自分の人生にとってtwitterを眺めるだけのこの時間とはなんだろう」などというむなしい気持ちは、自分の人生に意味があるという考えを捨て去れないからこそ起こってくるものなのだ。

「自分はこのまま、モチベーションも愛着もないこの仕事にだらだら就いたままでいいのだろうか」と悩むのは、自分には社会にとって意味のある仕事を成し得るという思い上がりや、仕事を通じて追求する意味や実現する自己などというものがあるという信仰が見せる幻想に過ぎない。

とはいえ僕らがどっぷり浸かってきたロマン主義を捨て去ることはできないだろう。

だから、いまある悩みのだいたいはロマン主義という信仰による認知の歪みであることを自覚しつつ、ぼちぼちやっていこうよ、とスヴェンセンは言っているようだ。

僕はこの考えにもほっとさせられる。

意味なんかなくてもいいのだと思うと、会社にいるあいだなにひとつ面白いことのないことに対して、へんな罪悪感や物足りなさを感じずに済むかもしれない。

 

twitterは「気晴らし」にはなるが楽しくはない。

仕事に関しては「気晴らし」にすらならない。

さて、僕が創造すべきバラとはどんなものかしらん。

最近はそんなことをぼんやりと考えていて、なるべくtwitterを控えて本を読むようにしている。そうするとこれがまた楽しいんだ。読みそして書くという一連の行為はそれ自体大きな喜びであって、生活を飾るバラだ。

もう思い切ってtwitterをやめて、空き時間にはどんどこ本を読もう!

 

そう思ってtwitterをひらくとぐっとくる文章に出会ってしまった。

 

 

"Keyif"なんていい言葉だろう。

暇はそれ自体で退屈なものではない。

暇そのものを愛でること。

暇そのものがバラであること。

そう、「何もしない」というのは「至福の行為」なんだ!

 

ここで僕は小学生の頃からのバイブル、ベンジャミン・ホフの『タオのプーさん』を本棚から引っ張り出す。

僕はいつも興味関心がころころと移り変わりひところ熱中しては飽きてしまう自分は、そうやってめまぐるしく変化しているのだと思っているのだけど、気がつくといつもこの本に立ち戻ってしまう。

きょうはこの本を引用しておしまいにする。

「それにしても、プー、きみはどうしていそがしくないの?」と、ぼくはいった。

「だって、いいお天気なんだもの」と、プー。

「それはそうだけどーー」

「だったら、ぶちこわすことないでしょ?」

「でも、なにか大事なことしたっていいじゃないか」

「してる」と、プーがいった。

「え?なにしてるの?」

「聞いてる」

「なに聞いてるの?」

「鳥とねえ。あっちにいるあのリス」

「なんていってる?」

「いいお天気だね、って」

「それだったら、もうわかってるじゃないか」

「でも、だれかほかのひともおなじ考えだってこと聞くの、いつだってうれしいもの」と、プーは答えた。

「でも、時間の使い方としては、ラジオを聴いて勉強するっていうのもあるんだぜ」

「そこのやつ?」

「そう。それ以外、どうやって世の中で起こってることを知るのさ」

「外へ出れば」と、プーがいった。

「う……そりゃ……」(カチッ)。「まあ、これを聞いてごらんよ、プー」

「本日、ロサンゼルスのダウンタウン上空で、ジャンボ旅客機五機が衝突、三万人の死者が出ました……」と、ラジオからアナウンサーの声が流れた。

「それで世の中のなにがわかるっていうの?」と、プーがきいた。

「フム。それもそうだ」(カチッ)

「鳥はいま、なんていってる?」と、ぼくはきいた。

「いいお天気だね、って」と、プーがいった。

やっぱりまったくこれはいい本だ。

こうやっていろいろなことを思い出させてくれるからtwitterはやめられないよね。

 

「それで世の中のなにがわかるっていうの?」

 

なにもわからないよ、でも、「だれかほかのひともおなじ考えだってこと聞くの、いつだってうれしいもの」

2017.07.10

週末奥さんが髪を切った。15センチ以上バッサリと切った。

それは感動的なかわいさだった。

もとから「外見なんて関係ない」なんてこと、言うつもりもないけれど、
かわいくなった奥さんに対し、あからさまにいつも以上に照れるし嬉しがるし
可愛いと言うしちやほやしたくなるから、我ながらゲンキンなものだと思う。

見た目はいいほうがいいに決まっている。
収入やコミュニケーション能力なんてものも、高いほうがいいだろう。
たぶんだけど、そういう人のほうが育ちもよく、性格もいい確率が高い。
性格もいいから周りに集まる人たちもいい人が多いかもしれない。
それが生理的なものであれ社会的なものであれ、
生まれ持ったものによってその人のかなりの部分が決まってしまうこと。
残酷なことだけれど、かなり多くの物事はこのようにミもフタもないものだ。
この世は公平などではない。
がんばっても報われないこともあれば、何もせずとも成功することもある。
不条理なところなのだ。

そういうものだ。

「そういうものだ(So it goes.)」と書いたじいさんは誰だっけ
ベケットだっけと調べたらぜんぜん違った。

そういうものは、もちろん僕のところにもありふれている。
ツイッターなんかで覗くことのできる、僕の知らない世界では、
おびただしい数のそういうものなことがあるようだ。

電車に乗ると、乗り合う人たちの悲壮、憎悪なんかにあてられて気分が悪くなる。
どんな恵まれない私生活を送っていたらそんなイヤな奴になれるんだ。
そう思わせるような人が沢山いる。

たぶんそれは、その人たちのせいではない。
その人たちのせいでなかったとしても、その人たちがイヤな奴であることに変わりはない。

僕の知らない世界の知らない人たちのことを案じることは、
どうやったって実感に欠けた野次馬の域を出ないから、
無責任に「ぜんぶマシになあれ」と祈っておこう。
愛は祈りらしいから、これもまた愛かもしれない。

「愛は祈りだ。僕は祈る。」ってだれが書いたんだっけ。西尾維新だっけ。

違う気がする。
西尾維新は「甘えるな」だよね。
イヤな奴がどんなにかわいそうなやつでもイヤであることはチャラにならない。

イヤな奴がますますイヤになり、
いい人がますますよくなっていく。
そんなバカみたいな現実の中で、僕は僕の知りうる範囲のことだけで暮らしている。
僕の知りうる世界の中でいちばんかわいい奥さんが、
僕と奥さんの知りうる限りいちばん穏やかで楽しい毎日を過ごしていけるといい。

そんな毎日のためだったら、僕はなんでもではなくとも多くのことができる。
たとえば僕は仕事にだって行こう。
最近は夜眠るとき、また起きて働きに出なくてはいけないことが、
あまりにやるせなくって涙が出そうになるけれども、それだけのことだから行こう。
「たとえ世界を敵に回そうとも」みたいなの、よく聞くけれど、
なるべくならやめておいたほうがいいと思う。
気持ちよく喧嘩ふっかけるよりも、気の合わない人にニッコリすることのほうが、
多くの場合、大事な人との暮らしを守るにはずっと有効だ。
必要のない敵をわざわざ作る必要はない。

イヤな人たちのイヤさに張り合って、自分までイヤになってはつまらない。
たとえナンセンスな世界と握手することになろうとも、
「そういうものだ」と割り切るところと、「甘えるな」と切り捨てるところをはっきりさせて、
イヤな人たちもちょっとはマシになれるよう無責任に祈りながら、
僕は僕の最高を大事に育てながら暮らしていきたい。
僕の知りうる限り、最高とは奥さんと僕のことだ。
これは祈りでも甘えでもなくて、そういうものなのだ。

 

2017.07.05

仕事が忙しくないとなんでこんな仕事に携わっているのだろうというようなことをよく考える。
学生のころ、暇で暇でしょうがなかったから人生の意味なんか考え込むのと同じことだ。

ぶらぶらと歩きながら考えれば考えるほど面白く、自分は自分の携わっているこの仕事が、
わりあい好きなのだなということに気が付いてくる。

夏葉社の新刊『すべての雑貨』(三品輝起著)を読み終えた。
雑貨を考えることから始まる考え事の射程はとても広い。
僕の仕事を通じてみるものも、ほんとうは広いはずなのだ。

日々の仕事はただ作業に追われたり、
意味ありげにキーボードを打ち鳴らしながら終業時間をじっと待つだけで、
胃の痛みか耐え難い退屈のどちらかをやり過ごすだけのものであるけれど、
一歩引いて、自分のかかわる「世界」を考えてみると、
とっても面白く考えがいのある「世界」なのだ。

思えば大学生のころ夢中になって考えた演劇のことなんかも、
ちょっと他人事だったからこそ夢中になれたのだろう。

あんまり自分事にしちゃいけないのだ。
自分のことでさえも。

ちょっと離れたところから、その「世界」のナンセンスを面白がるような、
そういう態度が「世界」を考え、楽しむためには必要なのかもしれない。

社会というのはちゃんとしたところだから、食いっぱぐれないためには愚直であるべき。
そう思い込んでナンセンスにまじめに取り合ってしまっていたようだ。

そんなものにまじめに取り合っていたら、たくさん怒ったり困惑したりしなくちゃいけないから、
すごく疲れるに決まってる。

「やっべえなあ、ひでえ話だ」
ナンセンスの渦中でひどい目に遭っているときこそにやにやと面白がったほうがいい。

自分のことこそ他人事。

これからも楽しませてもらおう。

2017.06.15

梅雨入りしてから二三日はもう最低に絶不調だったのだけど、
それからは雨も少なく夜涼しく、気分のいい日が続いているようだ。

楽しいことや怒ったことなど、あったようだけれど相変わらずこのブログでは
タイトルを日付にしているくせに日記のように書くわけでもなく
かといって動員が増えそうな時事ネタに乗っかるわけでもなく
ただ書いているだけの文章を書いている。

ついこのあいだ初めて妹と弟とお酒を飲みに集まって、
一緒に住んでいたころは3人のうちだれ一人お酒を合法的に飲める年齢ではなかった子たちが
それぞれ大人になってそうやって集まれたというのはとてもうれしいことだった。

そのとき弟は自分はバイト先で「彼女と喧嘩しないやつ」として有名なのだと言った。
何かの話のはずみで喧嘩しない秘訣は
「余計なお世話だと思うことにもちゃんと『ありがとう』と言うこと」となったので
それから奥さんも僕も余計なお世話だなと思うときにはしっかり「ありがとう」と言うようになった。
それはともかく弟の話は続いた。
そもそも自分は彼女に限らずだれとも喧嘩しないと言うと喧嘩しない秘訣を聞きに来る人たちはみんな黙る。
これには僕も妹もうんうんと肯いて、うちの人たちは喧嘩をしない大人に育った。

たぶんそれは喧嘩をするほど他人に興味がないからだ。
こう言うと冷たいやつらだと思われそうだけれどそうではなくて、
他人を他人のまま尊重する術が、うちの人たちにとっては
「自分と一緒にいないときのことには口出ししない」ということだったのだ。

一緒にいるときはなるべくご機嫌でいること。
それができるのならば、よそで何をしていようと、本人の好きにしていればいい。
本人の体や心が脅かされない限り、やりたいようにやり、行きたいところに行けばいい。
他人を自分の思うとおりにコントロールしたいというような横着さも、
他人が自分の思うようにふるまってほしいと期待する浅はかさも、
どちらも持ち合わせていないので喧嘩はしない。

書いているうちにまとまってきたのだけどこれは「他人に期待しない」という姿勢だと言えるかもしれない。
自分の都合よくあってくれる人も出来事もほとんど零しい。
困っているときや危ないときには助けたいけれど、そうでないときの「助言」は余計なお世話でしかない。
「ありがとう」と言おう。

大人になって、「ありがとう」と言われるようなことをしてしまうことが増えた。
他人に興味のない「自己中心的な冷たいやつ」から、
お節介な「他人を放っておけない人情者」に成長したともいえるのかもしれないけれど
それってすごく馬鹿みたいだ。
「ありがとう」、頼むから放っておいてくれ。
そう言われてしかるべきだ。

大好きな人の、自分と関係ないところに口を出したくなってしまう気持ちがわかるようになってしまった。
わかるようになってしまったからこそ、心配性が顔に出てしまうのに気が付かぬふりをして、
つとめて涼しい顔で、好きにやったらいいんじゃないの、と言えるようでありたい。

でもさあ、好きな人たちのことほど、傷つきやすい壊れ物のような気持ちが湧いちゃうわよね。
普通に人間のはずなんだけど。むつかしいな。

2017.05.25

雨を伴う低気圧や季節の変わり目の湿っぽさのせいかはわからないけれど、
きょうは特に不定愁訴がつらい。
体の内側、みぞおちのあたりにできた空間に
ヒューヒューと風が渦を巻くように吹き続けているような息苦しさがある。
もものあたりがむずむずする。
頭がぼんやりとして痛い。
何か取り返しのつかないひどいことをやらかしてしまったような、
正体不明の罪悪感のような焦りのようなものを感じる。

こういうときは、みぞおちのあたりに感じる嫌な空白感をごまかすために
思い切りわけのわからない音を叫びたくなる。
吐くまでひたすら食べたり飲んだりしたくなる。
とにかく自分をめちゃくちゃな状況に放り込みたくなる。

思い返せばいつだって春は特につらい。

たとえば去年も一昨年も、つらさには見かけ上の理由があった。
仕事がちょっと辛かった。
そのためにすっかり忘れていたけれど、
わかりやすく原因としやすい何かがなくたって、
この時期は頭も感情もつらいのだ。

いまの仕事はかなり楽で、
去年のように自分の職務上の無力感や
役立たずであることへの罪悪感や
容赦なく次々にやってくる〆切に無策のまま焦りだけ募らせることはない。
そういうことがないぶん、いま溺れかけている憂鬱や倦怠を
自分の納得のできる形で説明することができないということに気が付く。

やっぱり天気のせいだろうか。
仕事が退屈すぎるのだろうか。
残業がなくなった分ごっそり給料が減ったことへの不安だろうか。
体重が減ってしまって体力が落ちているのがいけないのだろうか。
全部その通りなのだろうけれど、たぶん全部ちょっと違う。

なんでもないきっかけの積み重ねで、
気まぐれに憂鬱と倦怠はやってくる。
事前にそいつに備えておくことも、来たときにうまく対処することも、
たぶんいつまで経ってもできるようにはならない。
じっと耐えるしかないように思える。

たとえもう一人じゃないと安心しきっていても
お金持ちになっても
筋肉がもりもりになっても
世界中からモテにモテても、
どこからきたのかもわからない
いつまた身を潜めてくれるのかもわからない
それでいて渦中にいるあいだは息もできないような
この気まぐれな憂鬱や倦怠とは
死ぬまで付き合っていくことになるのだと思う。
やっかいなことだ。

いまはもう、わけもわからず、じっと過ぎていくのを待つほかない。
どんなひどいことも、待っていればいつかは過ぎ去っていくというのは
能天気なたくましさでもある。

2017.05.18

結婚して、もう関わる他人は奥さんだけでいいとまで思いかけた。

けれども奥さんにモテ続けるためにも、

そして何より自分自身に愛想を尽かされないためにも、

色々と興味を持ち、足を突っ込んで行くような、

人懐こい軽さはなくしちゃいけないと思い始めている。

それはずっと口では言ってきたことだけれど、やっぱりここ一年はどこか

関わる人間は奥さんだけで充分だと思っていたふしがある。

 

正直、いまでも充分だと思っているところはあると思う。

どうせあと半世紀もしたらだいたいの友達は

この世かこの世じゃないどこかに散り散りになって

自分の近くからいなくなってしまうのだから、

半世紀後も一緒にいたい人だけを大事にしてもいいんじゃないか。

 

他人を大事にするというのは本当にたいへんなことだ。

だから、いまこの世にいる他人のうち、大事にするのは奥さんだけでいい。

いい、というか、それ以上手に負えると思い上がってはいけない。

奥さんというたった一個人でさえ、

頭からつま先までもれなく大事にすることはできっこないのだ。

できっこないことを、いつまでも懲りずにやり続ける。

そのやり続けること自体が楽しい。嬉しい。気持ちいい。

奥さんはそう思える相手だから最高だ。

そういう人は一人いればいい。

 

やみくもに大事にすることなく、他人と関わる軽さを身につけたい。

誠実であろうとすればするほど軽薄であるほうがいい。

そんな屁理屈がもっともらしく思えてしまうのは、

それだけ自分に余裕が出てきたということなんだろう。

 

お誘いがあるうちはなるべくフットワーク軽く、

お誘いに乗ってくれる人がいるうちはつとめて軽佻浮薄に、

いろんな人といろんな所に出かけて面白いことをたくさん見聞きしたい。

そうやって種々様々な余計なことや変なことを蓄えこんで、

奥さんや自分自身に「こいつ面白いやつだな」と思われたい。