2018.03.02

生活は割とあわただしく、季節の変わり目で気もちがいぎみで、まったく気持ちは忙しい。忙しいのだけどいかんせん仕事が暇なのだ。
気持ちが忙しいために会社にいるあいだじゅう考えなくてもいいようなことまで考えだして落ち込む。
落ち込みがネガティブな思い付きを呼び寄せ、再び落ち込む。
このように負のスパイラルに陥るのもすべて仕事が暇なのが悪い。
どうしてもどうしても暇なとき、退屈しのぎの最終手段として人間は何をするか。
落ち込むのである。
わざわざ考えなくてもいいようなことまで考えだして、不安になったり悲しくなったりするのである。
せっかく生活は忙しいのに、会社に来ているあいだじゅう退屈していては、一日の三分の一の時間を落ち込んで過ごさなくちゃならなくなる。そしてその落ち込みは残りの三分の一の生活にも影響をおよぼす。そうなると僕は一日のうち最後の三分の一、寝ているとき以外はずっと落ち込むハメになる。どんなに落ち込んでいてもあっさり寝れるのは自分のいいところだと思う。

こうして書いていて改めて思うのだけど、自分は仕事と生活をぱっきりと分けていて、それが苦しみのもとでもあることだ。
仕事も生活の内だと言えるようになれるだろうか。
なれるといいなとは思うけれどならなきゃならない道理もないはずで、なんでもいいから楽しく生ききりたい。
生活、睡眠、ずっと下に労働。この優先順位はたぶん一生変わらないだろう。
なんなら僕の天分とは「なるべく楽しく過ごすこと」なのだと本気で考えもする。
それなら仕事も楽しくやればいいじゃないかって、そう言われると困っちゃうな。

僕の文章は読みにくい。悪文だ。
書いている本人が読みにくいのだからそうとうだろう。
このブログに書くものは思いつくまま上から順番に書いていって、そのまま見直しもしないまま公開してしまうという、もうなんのためにわざわざ公開しているのかもわからないやり方で続けてきている。
だから、内容もそれぞれ接続しているようで接続していないようなものが多い。
「しかし」なんて一文を始めておきながら受けた前段をそのまま反復しているようなものまである。
なんでそんなことをするのか。

それは僕自身が読み返したときに面白いからだ。
僕がふと思い出したときに、このブログを検索すればいつでもいつかの僕の文章にアクセスできるようにしておきたかったのだ。
体裁を気にせずそのときそのとき書いたままに書くというのは、自分のコンディションがはっきりと表れるからいい。
人称や文体までブレブレで読み返しながら他人の書いたもののように感じることも多い。
この面白さは、きたない話で申し訳ないのだけどじぶんのうんちを見返すときの気持ちに似ている。
前日に食べたものや読んだもの、天気や心配事などのストレスの具合でその様子ははっきりと変わる。
自分から出てきたものなのに、それはすでにかつて自分を通り過ぎた者たちのなごりであって、出ていったとたんにもう自分ではないように思える。
ああ、確かにきのうはこんなかんじだったなあ、近頃ちょっと荒れ放題だからもうちょっと養生しなくちゃなあ、自分から出てきたものを見返してそんなことを考えてみたりする。
そんなかつて自分であり、いまは自分から分離されきった赤の他人のありようは、いまの自分を映し出すようでもありやっぱりまったく関係ないようでもあり、その距離感が面白い。こんな他人が自分から出てきたという事実は、そのまま自分というものがいかに自分以外のものでできているかを思い出させてくれる。

なぜ急にこうしてまた連日のように書き始めているのかというと、好きなブログがさいきん活発に、ほぼ毎日更新されているのに触発されたのだ。
なぜそれを知っているかというと、ここ最近仕事が暇なので職場で毎日のようにそのブログを検索しては新着の文章を楽しみに読んでいるからだ。
生活の実感をおもしろおかしく書けること、それでいて当人は至極おおまじめであること。
ほんとうにどれもものすごくいい文章なのだ。その実感が情けないものであればあるほどおもしろに磨きがかかっていくさまは、読んでいておもわず「どうやっても自分にはこうは書けない!」と羨ましさに転げまわりたくなるほどだ。

うんちの話なんかしてないで、僕も日々感じていることを素直に、それでいてユーモラスに書くことができたらいいな。
それはどんなに格好いいことだろう。

2018.03.01

このまえ会った友人のしてくれた話について、いまだに考えている。

ヨガの教室に通っているというその友人は教室の先生がこんなことを言っていたと話す。
人が人と対峙するとき、緊張や警戒心があると、胸の真ん中のあたりがこわばって閉じてしまう。そこを開くことが出来さえすればぽかぽかとしてきて、その温かさは相手にも伝わり、ほぐれていく。人を疑うことを覚える前の赤ん坊のまわりがぽかぽかとしているのは、赤ん坊の胸は常に開かれているからなのかもしれない。こんなようなわけで、仲良くなりたい人とはご飯を食べに行くのだ。ご飯を通すことで胸のところが開いていくから。それでもなお仲良くなれない人とは、だからよっぽど気が合わないということだろう。

だいたいこのような話だった。
いや、僕の記憶はいつだって信じがたいほど信用ならないので、いまではそんなような話として思い返している。

この話を感心しながら聞いていた僕が考えていたのは「はたして僕は今から赤ん坊のようにぽかぽかと他人の前に出ていけるだろうか」ということだった。
僕はご飯を食べて物理的に胸のところを広げようとしたところで、かたくなにこわばってしまうことが多い。これはたぶん僕の身体が信じがたいほど固いことも関係があるだろう。僕は前屈するとその指先から地面まで15センチは距離がある。これは誇張ではない。笑っている場合でもない。
では毎朝毎晩柔軟体操をして、体を柔らかくすれば、僕もぽかぽかと他人に心を、いやみずからを明け渡すことができるだろうか。
誰もかれも分け隔てなく、温かいところへと招き入れることに頓着しない。
そういう風になれるだろうか。

赤ん坊のようにポカンと世界に投げ出される。
そのイメージの鮮烈さに思わず心を奪われてしまった。
けれども、はたして僕は本当にそのようなことを欲しているだろうか。
正直よくわからない。

ともかくこの話を聞いて以来、気がつくと胸のあたりに意識が向いている。
たしかにこの人と話すときは胸のところが窮屈だな、とか。
意識的に胸を開いて歩くと、確かに気持ちはぽかぽかとしてくるな、とか。
胸を開くたびに肩甲骨のところがポキッだとかバキッだとか楽しい音を立てているけど大丈夫なのかな、とか。
奥さんといるときにどれだけ自分が開かれているかみてみなくちゃと思うのだけど、リラックスしきってしまうからか、奥さんといて胸のところを意識することを思い出せないままでいる。

 


町場のおばちゃんの、素朴なおせっかい。
そんなイデアとしての「おばちゃん」にヒントがあるような気がしている。
自分を自分の縁りかかるものへと投げ出しながらも、守りたいものはちゃんと守る。
赤ん坊に戻るのはちょっと色々と大人としてあれだけども、おばちゃんなら目指せそうだ。
それは芯が一本通っているということなのかもしれない。

ちんけな自意識やプライドを気にかける必要がないくらいの、丈夫で頼もしい芯。

2018.02.27

「あ、たぶんこの景色はずっと忘れないんだろうな」と思わされる情景のただなかで、僕は大概ほかのことをしている。
先日新居となる家から町へと歩いた。
新居のあるところと町とを分かつ大きな川にかかる橋めがけて歩いていくと、土手がどんつきのようにそびえ立っているところに着く。
壁のような土手の裏側。
そこから道路一つはさんだところに、橋へと続く階段があって、それをのぼるうちにどんどんにおいが川の近くの感じになってくるのがわかる。
とうとう橋の上についたとき、それまで目の前の土手と、真上にかかる橋とで窮屈だった視界がいっぺんにわーっと拓ける。
時刻はちょうど日が高く上るころで、車通りがおおくけしてきれいとは言えないけれど冬らしく澄んだ空気で川が向こうまで見渡せる。
ちょうど向こうで電車が川を渡っているところだった。
眼下では少年が野球をしている。白いユニフォームはもちろん土にまみれ、青い汗のにおいを思い出すようだけれど僕は野球が嫌いな少年だったので球児の汗のにおいなんて知らない。
完璧だなあ、気持ちがいいなあ、これは。
隣を歩く人が「楽しすぎて泣けてきちゃうな」というようなことを、楽しすぎて泣けてきちゃうような様子でいうので、思わず泣けてきちゃうところだったけれど、僕はそのとき、タブレットをいじりながら奥さんとLINEをしていたのでものすごく曖昧な空返事をしただけだったように思う。
というのも最愛の奥さんはその日の前日親知らずを抜いた。
そうしてこぶ取り爺さんの爺さんのようにぷっくりと腫れたかわいい顔の奥さんは、かわいいのだけれど痛みとだるさでかわいそうなのだった。
僕は家でお留守番をしているこぶ取り爺さんのようなかわいい奥さんのことが心配でたまらず、完璧な情景のさなかタブレットばかり見ていた。
もったいないことをした。

けれども思い返せば、「あ、たぶんこの景色はずっと忘れないんだろうな」と何度も思い返すことになる情景は、おおくのばあい「だからもっとちゃんと全身で味わっておくべきだった」という後悔とセットになっているようなのだ。
そうした情景のただなかで、僕は大概ほかのことをしている。

たぶんその場で「味わいそこねた!もったいないことをした!」と後悔しているからこそ何度も思い返すことになるのだろう。
その場で没頭していれば、思い返すとしてもそれはその場での得難い経験の出がらしのようなものなのだから。
なんど聴いてもメロディが覚えられないから、いちいち初めて聴くような気持ちで音楽を聴ける。
読んだ端から忘れるから、いつでもあたらしい発見とともに本が読める。
古い友人でも名前すら出てこないことがあるから、十年ぶりに会う人でも二か月ぶりの人でも、おなじように新鮮な気持ちでお茶に行ける。
没頭したものは、覚えている必要がない。いつあったっていいんだから。

けれども一回きり、そのときだけのよさというのもあって、ぼくはそういうものをちゃんと経験しそこなう。
いいとき、いいところで、なにか別のことにはんぶん気を取られている。
それはもったいないことだなあと思ってしょげる。
けれども、その場で味わいそこなうからこそ、それを思い出すとき、いちいち新鮮で、得難いような感覚をおぼえるのだと思いなおすと、なんだかお得な性分にも思えてきてちょっと気分がよくなってきた。

反省文のつもりで書き始めたけれど、なんともしまりのない感じになってしまったな。
まあいいか。

 

2018.02.13

ここ一年くらいだろうか。
発酵にハマっている。

さいきんはすこし落ち着いてきて、会う人会う人に「それは発酵ですね」「発酵でいうとこういうことですね」なんてうざい会話を仕掛けることもなくなってきた。
「ちゃんとお世話するから!」と奥さんに宣誓して買った糠床もほったらかしにしがちだ。この季節だと冷蔵庫に一か月くらい放っておいてもなんともないことがわかり、なおさら構ってやらないでいる。よくないと思う。
それでもやっぱり、ことあるごとに「これは発酵だなあ」と思う。

発酵と同時期にハマったもののひとつに能がある。
あのお面をかぶってのろのろ動くやつだ。
あれもまたべらぼうに面白い。

発酵と能に共通するいいところは「時間がかかる」ことだ。
発酵食品づくりを実践しようとなったら、それが糠床だろうとパンだろうとやることは微生物のために環境を整えること、ほぼそれだけだ。あとはただ時間が経つのを待つ。この、他者のために心をくだいて環境を整えてやり、のこりはすべてこの他者たちのはたらきに委ねるだけというのがとても気持ちがいい。僕も微生物もただあるだけだ。基本的にはほったらかしあっている。そんななかたまたまお互い気持ちがいいようにできると、おいしいものが出来上がったりする。
能の上演もものすごく高濃度に圧縮された短いテクストをじんわり解凍していくように、長い時間をかけてゆっくりと謡われ、舞われる。そもそもこのテクスト自体が云百年の時を経てどんどん短く濃く醸成されていったものだし、その解凍のメソッドも同じように歴史を背負っている。歴史を持つということは、今を生きる主体にだけ還元できるものではない何かを持っているということだ。

発酵も能も、自分の意志の介在しようがない「ただ過ぎていく時間」というものが大事だ。
これが僕の気分にとってしっくりくるところの一つなのだ。

自分の意志で勝ち取ってきたものなど何一つない。
すべては偶然とフィーリングでなんとなく決まってきた。
それは牛乳がチーズへと発酵していくのにも似ている。
それは詠唱される情景が刻一刻と変化していって、それを聴き終えたときにはじめてその折りたたまれた情景の全体が感覚できるのに似ている。
すばらしい両親を選んで生まれてきたわけではない。いくら食べても肥らない体に育ってしまったのもなんだかそうなっていたということで、望んだわけでも嫌なわけでもない。本を読むことや勉強が苦でないどころか割と好きなのもたまたまだ。進学する学部だってクラスの女の子に「かっこいい」と言われたところに決めた。友達だって、どうして仲良くなったのかどころかどうしていまも仲がいいのかすらよくわからない。住むところも就職先もそのときどきの成り行きや当時読んでいた漫画や「なんとなくいい感じ」という雰囲気で決まってきた。僕たちの最高の結婚だって、僕の意志というよりも、たまたま奥さんと同じくらいのタイミングで「いい感じ」がやってきたから決まったことで、しいて言えば僕らの意志なのだけれども、それでもやっぱり「結婚するぞー!」みたいな力強い意志みたいなものはそこにはなかったように思う。

振り返ってみるとなおいっそう、大きなイベントほど自分の意志で選び取ってきたわけではないな、という感じが強くなる。
いつでも個人ができることなんて、なんとなくの感じだけで、このまま流れに身をゆだねていくか、それともちょっと逆らってみるかを考えることだけだ。
個人が現実に対してできることなんて、糠床をかきまぜてみるくらいのことなのだと思う。

糠床をほったらかしにしすぎて水が出てきてしまったり、やばそうな臭いが漂ってきてしまったら、乾燥シイタケや塩を足してみて、祈るような気持ちで二三日待つ。
このときも僕は何もできない。
微生物の集合住宅である糠床の中で勢力図がどうあるかなんていうのは、人間とは関係のないところで起こる。
それでも僕は勝手だから、僕にとっておいしい漬物をこさえてくれる微生物たちに加勢しようとする。干しシイタケや塩を加えて糠床の環境を整えてやることはたしかに僕の「おいしい糠漬けをつくりたい」という意志みたいなものかもしれないけれど、これは意志というよりも祈りに近い。それに糠床の環境を人間に都合のいいように立て直すのは「おいしい糠漬けをつくりたい」という気持ちではなく、水分を吸収する干しシイタケや、pH値を整える塩を投入するその行動であって、たとえ「おいしい糠床をつくりたい」なんておもっていなくたって、干しシイタケや塩を入れたら糠床の環境は変化していく。
糠床という小さな現実に対してみてみても、意志はその現実に何も関与しない。

行為と時間の経過だけが現実にはたらきかける。

自分にできることなんて、動いてみることと止まってみること。あとは待つことだけだ。

発酵を通じて微生物のことを考えていると、ぼくらはほんとうに一人で生きているわけではないと痛感する。そもそもこの身体だって、自分由来の細胞よりも巨大な数の微生物が暮らしている。わたしの身体は膨大な他者との共用物なのだ。

悩むのは適量を守っていれば楽しいけれど、過ぎると孤立してしまったような息苦しい気持ちでいっぱいになってしまう。
そういうときは自分で決められることや自分で選び取れるものなんて実は何一つないということを思い出すと、少し楽チンになるんじゃないだろうか。
さいきんはそんなことを考えている。

現実に文句があるのなら、悩んだり意志をたくましくすることよりも、とりあえずかきまぜてみて、じっと経過を待っているというのが、案外いい感じにおさまっていきやすいようにも思う。

楽しい感じのすることだけを大事にしていきたいな。

2018.1.10

左手の日に日に細くなっていく薬指にかろうじてひっかかっている指輪をさっきまじまじと見つめてみたら、これはなんてかわいい指輪なんだろうと改めて感心してしまった。

この指輪に決めた日からたぶんもう二年以上が経っているはずで、結婚でもしてみるかとなってからわりと早い段階でこれと決めて我が家にお迎えした。とたんに、はやくこれを嵌めたいという気持ちが起こって入籍の日取りを早めたくらいだった。

こんなことを思うのは、つい二三日前に指輪をなくしかけてヒヤッとしたからかもしれない。
ヒヤッとする事態はそれで二度目だった。
たぶん僕はモノに愛着こそ持てども執着はしない性質のようで、なくしたかもしれないと気がついたとき、一度目ほどはショックが強くなかった。
一度目は「自分は大切なものをうっかりなくしてしまうような人間だったのか」というショックが大きかったけれど、いまではもう自分は大切なものをうっかりなくしてしまいかねないと知っているのでそういう類のショックはもう大きくはない。
それでもやっぱりショックは受けていたのだけれども、それと同じくらいの強さでもって「次はどんなのにしようかなあ」という考えが浮かんでいた。

モノは個人的な情報の記録や伝達、保管のためのメディアであって、なくしてしまったら自分の身体にバックアップが残っているうちに替わりのものを手にすればいいのだと思っている。

とはいえ、そのモノにしか媒介できない情報というのもたしかにあるだろうから、替わりのモノに付与されるのはかつてあったモノがいまはないという喪失の情報だろう。
そうした喪失の情報それ自体がメディアとなって、かつてそのモノが媒介していた情報を媒介する。

きのうイーガンの『ディアスポラ』を読み終えて、すっかりSF気分だ。
昨年のはじめごろに夢中で読んだ清水博『生命を捉えなおす』が、今年のSF気分の育つ土壌を耕していたのだなと気がついた。
本を読むことは、他者を自分のうちに受け容れるということだ。
他者との混濁から、あたらしい自分の相貌が表れてくる。

あたらしいアプリに対応するためにOSをアップデートするようなものだろうか。
アップデートしたOSでは、これまで想像もしていなかったものやことを、それまで想像もできなかった方法で走らせることができる。
そうやって自分をどんどん書き換えていく感覚は楽しい。

いまはとにかく手当たりしだい他者と交わって混濁したままの状態だ。
ここから上澄みを掬うように、これからの自分を、ある程度安定した形に決め込んでいかなくては日常生活に支障が出てきそうな予感がある。
溜め込めるだけ溜め込んだら、そこから何を捨てるかが自分をつくる。
自分の身体というメディアに溜め込める容量には限界がある。
けれども捨ててしまえば、その捨てたという情報それ自体が、あたらしい情報のメディアになる。「あれを手放した」という記憶それ自体が、外部記憶装置となるのだ。

手放すことは、拡張することなのだ。

今はなんだかそんなような気持ちでいる。
とりあえず、なるべく指輪はなくさずにいたい。

2018.1.4

きのうは奥さんと二人、ガストでドリンクバーパーティを催した。
パーティは夜中の1時まで続いた。

そこで出た話題で面白かったのは、奥さんの趣味があまりおしゃれではないことの奥さんによる自問自答で、そこから導き出されたのは「あなたはおしゃれなものが好きなのに、あなた本人はおしゃれではない」という指摘だった。
とんだとばっちりだ。

きれいなものが好きであることと、本人がきれいであることとは、別のことだ。
自分を好きになるために、自分がきれいであるに越したことはないけれど、自分がきれいだと思うきれいを自らに要求するあまり、かえって自己嫌悪に陥ることだってありうる。
僕らはお互いに、自分の美意識と、その審美眼を自らに対してはつむることとのバランス感覚が似ているのではないか。
そんな話のさなかに「あなたはおしゃれじゃない」と真正面からバッサリやられてしまったのだ。
ちょっとしょげた。

また、お互いに向けている審美眼に関しても、たとえばもう僕は奥さんが何をしていても可愛い。そういうわけで全くあてにならない。そういう話もした。
だから、理想と現実とを分けて考えられるバランス感覚それ自体はとてもいいものだけれど、ちょっとは自らに自らの美をストイックに要求してみる気概を持たなければ、あっというまにしょぼくれてしまう。


我が家の家訓は「仲よく 楽しく 元気よく」だ。
今年はここに「美しく」を加えたい。

「仲よく 楽しく 元気よく そして、美しく」

もうすでにこの標語からしてダサいが、それはそれでよい。いや、よくないのかもしれない。
ともかく、今年は奥さんにあれれと見直されるようなビューティーを手に入れてみせる。

 

2018.1.3

年末年始は、いつも通りでいようと思っていてもなんだかあわただしく、そして気持ちが改まるようなことになってしまう。
いつもと同じように日が変わるだけなのに、ふしぎと新しく生まれ変わったようなすがすがしい気持ちに誘われるのは新年の魔力だろう。こわい。ついついお蕎麦やらお餅やらを食べたくなっている。

今年もとにかく本が読みたい。
昨年は「発酵」をキーワードに本を読み進めていったけれども、今年は「SFと仏教」をとっかかりに始めてみたいと思っている。

ここにきて物語というものはやはり大事だな、というような気持ちになってきている。
どうしてもその負の効用ばかり目について、物語なんてものはないと言い続けてきた。
いい加減、わざわざないないと言いつのらなくても、ないものはないのだと自然に思えるようになってきた。
すると今度はないものを誰かとつくりあげていくことをいま一度見直してみたいような気持ちが湧いてきている。
ないものがあるような気持ちで囚われてしまってはナンセンスだけれども、ないからといってまるきり拒絶してしまうのも同じくらいナンセンスなことだ。
囚われず、わがものにしようとせず、うまい具合の関係を、ようやく物語と築いていけるような感覚がある。
やってみないとわからないけれど。
やってみることにします。
それは文字通り物語を読んだり書いてみることであるかもしれないし、自分の生活に物語を置いてみることであったりするだろう。
生活における物語とは、たいてい邪魔になるものだけれども、たぶんうまく使えばよく活躍をする道具になるはずで、ようやくうまく使えるような根拠の不明な自信が出てきた。

東京というのは洗練とは程遠い田舎臭い場所だけれど、ここでなかったら洗練された場所があるというわけでもない。おそろしいことにもっと田舎臭いところのほうが多いくらいらしい。
いやになっちゃうけれど、いまいるところで、ありもので、なるべくあかぬけたようにやっていくしかないのだ。

よりよい生活のために実践することとして、今年は下記のことを続けていきたい。

発酵食品づくりとプログラミングの技術を体得する。
筋肉をつけてうつくしく太る。
簡単にはへばらない体力と、よく通る声を獲得する。
日本語と韓国語の勉強をする。

上から順番に優先したい気持ちが強い。
せめて上の二つについては騙し騙し続けたい。
そして気分は「SFと仏教」でいくのだ。

今年は奥さんとの企みごとをのんびりとしかし着実に発表していきたい。
それとは別にお芝居もそろそろやってみたい。

年始に浮かされて気が大きくなっているうちに放言しておこう。
なんだかんだ言ってしまったことはだいたいやる。
やれなかったらやらないけれど。
やる。