2019.02.13

またはてなブログから「振り返りませんか?」とメールが来て、まんまと読み返してこうして戻ってきた。


「振り返りませんか?」とうながされたその時々で振り返ってはまた書くというのをこれからも続けていくのだろうか。なんにせよ継続というのはそれだけでいいものだなと思う。まだ奥さんが奥さんですらない、それどころか好きな人でもそんなになかったというか生活の中にその人はまったく入り込んでいなかった時期からこのブログは続いていて、そのころの文章を読み返すと何世代か前の文明を掘り起こしているような気持ちになった。なんというか、奥さんと一緒になれてよかったね、としみじみと思う。


それでもいまと言っていることはさほど変わっていないし、同じようなことを何度でも何度でも書いていて、こいつは変わらないな、ほんと変わんないな大丈夫か、と呆れた。面白いのは当時あたまのなかでぐちゃぐちゃだったものをそのままワーッと書き出したような文章が、そのとき読み返すとぐちゃぐちゃなままだったのがいま読むと案外文章の体をなしていて「え、俺やるじゃん、いい文章書くじゃん」と思えたことだった。


総じて僕の文章は父の書いたものによく似ていた。意識せずとも文体まで似ているというのはちょっと恐ろしくもある。僕は読むときあたまのなかで音読をしているというか、とにかく文字を音声に変換してそれを聴くというような作業をしているようで、文体とは僕にとってどんな声音に変換されるかということだった。たとえば保坂和志保坂和志本人のままの声で読むけれど、柴崎友香英米文学の翻訳を読むときと同じような声というか持ち主のはっきりしない音として読まれる。阿久津隆『読書の日記』を読んだときにびっくりしたのはまるで自分の書いた文章のようだったからで、そのくらい僕が自分の文章を読むときの音とよく似ていた。それ以上に僕が僕を読むときに文字が変換される声音は父のそれとそっくりだ、それは僕の肉声とも父の肉声とも似ていない。


父と本屋に行くと漫画や雑誌でない本を必ず一冊買ってもらえた。なんだかんだ親の顔色というのはうかがうものだし、自分では自分の意志で自由気ままに本を選んでいるつもりでも、けっこう親の好き嫌いの範疇で本を選んでしまうものだ、そう父は言っていたし、本当にその通りで実家を出て十年ちかく経ったいま僕の本棚は実家のそれとはまったく似ていない。実家の本棚にはなじみそうにない本がこんなにもある。独り立ちしたときにどれだけ自分の選ぶ本が親の影響下にあったかに気がつくと思うよ、となぜだか嬉しそうに話していた父は、今の僕の本棚を見ても、ウゲッとかふーんみたいな感想しか持たないかもしれない。独立前の本棚から、そこまで遠くに行けたことが嬉しい。


父が読みそうにもない本を読みに読んで、それでも自分の書く文章は似たままであるというのがおかしいような怖いような心持ちにさせるが、きょう書いたこの文章を読み返してもどこも父には似ていない。昨年だか一昨年までは似ていた、ということだろうか。この文章も来年読み返したら父の文章を思い出させるのだろうか。一年後の「振り返りませんか?」のメールが楽しみだ。

2018.12.07

さいきんアカウントを作るだけ作って放置していたnoteをとうとう始めた。

しかも毎日更新するのだというから驚きだ。

更にはこうしてブログまで書くのだからどうかしている。


はてなブログからはたまにメールが来る。「○年前のブログを振り返りませんか?」

へえ、あれから一年かあ、三年前の自分はこんなこと考えていたんだっけ、と面白く読み返し、まんまと戻ってくる。いい加減にでも年月をかけて積み上げていくというのは、あとから振り返る身からしてみればいいものだ。占いや性格診断のサイトや、健康診断みたいな楽しさがある。幼い子供が夢中になって鏡に映る自分を眺めるのと似たような楽しさだ。


毎日万年筆とキーボードでなにか書くようになってわかったことはその気になれば毎日でも書けるということだった。


これはちょっと自分で自分に感心した。へえ、やるじゃん。


出涸らしの出涸らしみたいな文章をなんでわざわざここに書くのかって一年後の自分が「一年前のブログを振り返りませんか?」とメールを受け取ったとき、自分は確かにあのころ毎日書いていたのだと感心するためだ。


そのときの自分は思うだろう。

おれ、このころよっぽど暇だったんだな、と。


でも万が一、そのときの自分がまだ毎日書いていたとしたら、それはすごいことだと思う。

そうだとしたら、えらい、おれ。

セネット『クラフツマン 作ることは考えることである』を読みながら(2018.10.27-11.01)

神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ

カート・ヴォネガットスローターハウス5伊藤典夫


もうほとんどミームになっている上記文句を、久しぶりに思い出し、しみじみと良く、大人に、おっさんに、なったなあと痛感する。

セネット『クラフツマン 作ることは考えることである』という本を読んでいて、WIREDの「ものづくりの未来」特集号を読んでいたときにちょうどインゴルド『メイキング』を読んでいたので、お、著者インタビュー載ってる、と思ったらそれはインゴルドではなくセネットで、手仕事についての論考であることに加えて白い造本も混同しやすく、なんか違う人だったけど面白そうだしいつか読も、と思っていた『クラフツマン 作ることは考えることである』をいま読んでいる。ものづくり=クラフトとは、無限の可能性への挑戦ではなく、むしろ不可能なことを制限として受け容れて、その制限のなかでいかに働くかという営為なのだと本は言う。クラフツマンは可能と不可能の境界領域で逡巡することで、長く緩慢な時間をかけて「できること」を増やしていく。格好いい。

とにかくそうして楽しく読んでいて、WIREDのことを思い出し、そのまま「おっさんvs世界」についての対談記事を見つけて、それを読んでいたら若林恵ヴォネガットを引いていて、おお、ヴォネガット、となり、最初の文句を思い出したのだった。


カート・ヴォネガットが、どこかの高校だか大学の卒業式で講演した文章っていうのがあって、それがぼくは好きなんですよ。「大人はみんな『これからの世界を変えるのは君たちだ』なんて言うけれど、君たちには地位も人脈もないんだから残念ながら世界は変えられません」って言うんです。でも、変えられるときは必ず来るから、そのときが来たらちゃんと変えなさいってなことを言うんですが、ここが実際は本当の勝負だと思うんです。20年ガマンして、やっと何かを変えられる地位や権限を得たときには、自分もすっかりあれだけ嫌ってたおっさんになってるっていうのが、わりとありがちなことだと思うので。クソだなって思うこと自体、若いうちは簡単なんですよ。でもその思いを持ち続けることは結構難しい。

https://www.businessinsider.jp/post-162239


渡辺拓也飯場へ』を読んでから、職場の「勤勉」倫理を内面化することへの忌避感がはっきりと像を結んだような気がしている。いま僕らをこき使うおっさんへのヘイトは、使用者の倫理に対するヘイトである。しかしいざ自分がおっさんとなり、クソだなと思う構造に取り掛かれるだけの地位や人脈や権限を手にするとき、そのときの自分の倫理観とは、いままさに憎悪している「使用者の倫理」ではないか、という予感。予感というか、そろそろ気の早い使用者たちからは中堅と呼ばれるようになってきたいま、僕は知らず知らずのうちにこの「勤勉」の倫理観をすこしずつ我が物にしていることに気がついて、心底ゾッとしたのだ。「自分もすっかりあれだけ嫌ってたおっさんになってる」というのは、ものすごい恐怖だ。僕は「勤勉」でも「有能」でもありたくねえ、という気持ちを、おっさんになるまで持ち続けること、そのうえでそうした「勤勉」倫理の解体を実践できる程度の地位までの出世を目指すこと。それって両立可能なのかしら。どんどん自信がなくなってくる。おお、神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ。


『クラフツマン 作ることは考えることである』を読み終わった。全編にわたり職業倫理の内面化についてポジティブな捉え方をしていて、それはそれで面白い。クオリティを追求する「勤勉」とは、完璧主義という名の強迫観念である。「勤勉」への執着は、個人の「有能」を示したいというロマンチシズムから起こる。クラフツマンの型通りの順序への忘我的没入というのは、余分な自意識を手放す実践なのである。これは、個人の能力の差異をことさらに強調して、「有能」を競うように駆り立てられる新自由主義経済のただ中で、ますます孤立を深める私たちに顧みるべき何かを感じさせるではないか。ウェルビーイングでもマインドフルネスでもいいけれど、肥大する自意識に苦しむ私たちが取り戻すべきはクラフツマンシップなのだ。よりよいものを作ること。そのために型を徹底的に反復練習すること。その反復、試行錯誤のプロセスはそれ自体で大きな喜びである。クラフトとは、行為の外にある目的を達成するための単なる手段ではなく、それ自体に目的を内包した絶え間ない実践なのだ。その実践は孤独な個人の実践ではありえない。型の取得は先人たちの手仕事をトレースすることであり、そうして体得した技術を、また後継者へと手渡していく、そうした社交の形成をも意味するのだから。さあ、個人の差異をことさらに強調するのではなく、クラフトの型を練習し、失われた自他の境界領域すなわち公共圏をもう一度作り直そうではないか。


セネットの結論はちょっと夢想が過ぎるけれども、インターネットが見せてくれたコミュニティの夢というのは、だいたい同じような形をしていなかったか。インターネットにより作り手=生産者が自分で情報発信できるようになったし、もう小売りなんていらないじゃんね、という気持ちもかつてはあったが、いまは商売のプロ舐めんな、という気持ちのほうが強い。クラフツマンの権威だけを強調するでもなく、消費者を神様とおだてるでもなく、周縁にいる対等な媒介者として、三方良しの利害の調整を為すのが商売人であるはずで、若林恵が示す編集者としての矜持とも通じるようなものを、商売人は持っていいはずだ。セネットはよきクラフツマンは合理的な倹約家でもあるとしているが、これはまさに商売人が身につけるべき技能だろう。利害関係者の利益の最大化を、できる範囲で、嘘をつかず、正直に追及する、それもひとつのクラフトだよね、という気持ちにもなれるからいい本だった。

これはまったくの余談だけど自分たちのことを「効率厨」「貧乏性」と評する僕ら夫婦は、まさしく合理的な倹約家としてのクラフトを日々営んでいるとも言えるだろう、なんてことまで連想したからいい本だった。


最近は石田梅岩が気になっていて、『都鄙問答』って外山滋比古『新エディターシップ』の商人版みたいなものなんじゃないかと読んでもいないくせに勝手に想像しているのだけど、とにかく商人のクラフトマンシップというものを、追求してみるというのはいいかもしれないな、と思えるようになってきた。どうせ奉仕するなら、会社の、おっさんの、使用者の倫理ではなく、実践者の倫理に奉仕したい。余分な自意識を手放すことと、生き延びるための自己表現は、両立しうるどころか前者の達成をして初めて後者がいいものになるような予感がある。


そんなことを考えながら『クラフツマン』を読む時間だった。作ることは考えることであり、読むことは書くことであったから、こうして書きながら読んでいた。

そんなときによんだfuzkueのブログがとてもよくて、いまの気分にあまりにしっくりきて、嬉しかった。


先日受けた、公開された、Squareのインタビューで僕は、店を始められた理由として「世界への信頼みたいなものじゃないですか。そういう店があったら行きたい僕という人間が、ここにいる。それなら、同じような人間が、小さな商売が成り立つ程度にはいるんじゃないのかな、きっといるでしょ、この世界には、という信頼。」と言っていて、いい言葉だなと思ったし、個人が小さななにかを始めようとするとき、主語が大きかった、僕が小さななにかを始めようとするとき、これ以外に拠り所にできるものはないように思う、自分は特別な存在ではないという認識。自分ごときがこうやってほしいと思っているこの欲望なんて、そんなのは凡庸な、ありふれた、特別変わった欲望ではないはずだ、という認識。じゃ、大丈夫でしょ、どうにかなるでしょ、という期待。やるだけやって、サボったり立ち止まったりしながらもできる範囲で嘘なく、自分の目を騙すことなく、本当に自分だったらほしいものになっているかどうかをちゃんと問いただして、それを具現化できたとしたら、それでそれをできる範囲で外に知らせようと努めて、できたら、できたとしたら、あとはまかせたというか、もしまったくダメだったら、それはもう、世界が悪い、世界に落胆して失望して終わりにすればいい、世界につばを吐いて、ほんとお前らは揃いも揃ってクソ愚かだな、バカなの? と言っておしまいにすればよかった

http://fuzkue.com/entries/582


「勤勉」でも「有能」でもない僕は良き労働者にはなれないだろうけど、でもなんか「いい仕事」はしたいよね、と素直に思うこともある。

2018.10.12

奥さんがいなかったらとっくに会社を辞めて楽しく刹那的に生きていただろう。

けれども奥さんが足枷になっていると感じたことは一度もない。

「自分を苦しめてきたのは不可能性よりもむしろ可能性のほうだった」というようなことを、いつだか弟が書いていた。僕もそう思う。野放図に何でもできるという自由よりも、あれはできないがこれはできるというふうに、制約のなかで工夫していくほうが気分も楽チンで軽くなるということが、確かにあるのだ。また、本人はその不可能性を制約ともなんとも思っていないことのほうが多かったりする。そもそも奥さんは最高なので、僕がリスクを取ることを止めないだろうし、それをちゃんと二人のリスクとして引き受けてさえくれるだろう。奥さんは「あれもしちゃだめ、これになさい」とは言わない。むしろ「なんでもいいよ」と言ってくれる。それでも、奥さんは「あれもできるしこれもできるやろうと思えば何でもできる!」という可能性に窒息しそうになる危険から予め僕を引き離してくれる。ありがたいことです。

自分の分をわきまえるということと、他人の都合のいいように自身を矮小化することの見分けは難しい。自尊感情を損なうことなく渡れる人のほうが少数派のように思える、鬼すらも卑屈なこの世にいてはなおさら困難だ。

いまは、大過渡期だと思ひます。私たちは、當分、自信の無さから、のがれる事は出來ません。誰の顏を見ても、みんな卑屈です。私たちは、この「自信の無さ」を大事にしたいと思ひます。卑屈の克服からでは無しに、卑屈の素直な肯定の中から、前例の無い見事な花の咲くことを、私は祈念してゐます。

太宰が「自信の無さ」と題した短文にこう書いてから八十年近くたってもまだ大過渡期を抜け出せてはいないらしい。卑屈の肯定から見事な花なんか咲くわけもなく、ろくでもない膿しか出てこないのではないか、そんな疑念すらも浮かんでくるような出来事が多くて、ぐったりする。卑屈は自信のなさからくるのではない。自尊の乏しさからくるものなのだと思う。

誰ともわからない人のために、自分を卑小なものに貶めることは、そのまま他人の価値を貶めることに繋がっている。自分のために、誰かを卑小なものに貶めることは、そのまま自分の価値をどぶに捨てている。腐らずくさすこともなく、のうのうと機嫌よく生きていければそれだけで十全に現状への否を突きつけることになるだろうと思い、なるべくそのようにいる。機嫌よくいることは最高の復讐である。

「あれもできるしこれもできるやろうと思えば何でもできる!」という幻想を持ちづらい世で、なぜかまだ「あれもできるしこれもできるやろうと思えば何でもできる!」という思い込みが根強く生き残っているのではないか。現実は、あれもできなければ、これだって怪しいものだ。「ぶっちゃけ、できることそんなにない」というところから、創意工夫を凝らしていくしかないんじゃなかろうか。意識高めても別に景気が上向くわけじゃないし、楽しい低みで会おうよ。

 

第n回私たちは最高会議会報(2018.09.07)

昨晩開催された「第n回私たちは最高会議」には奥さんをはじめ私自身にもご参加いただき、たいへん実りのある議論が活発になされました。なかでも「私たちはツーカーではないという前提を維持しているので最高」という奥さんの発言には会場全体からの賛意の声が次々に上がりました。

夫婦に限らずあらゆる人間関係は、ともかく言語化というコストを嫌う傾向にあります。ツーと言えばカー、エジソンと言えばえらいひと、けものフレンズと言えばたつき、そんなことは言わずもがなで、言語化など野暮というもの。そういった傾向が根強く存在するのです。

このたびの「第n回私たちは最高会議」でなされたのは、こうした傾向に対する批判です。「いやいやいやいや、言わなきゃわかんないっしょ」というツッコミを、私たちは世に問いたい。

人間関係において、「察することができない」というのはなにか人間性の欠陥であるとか、はたまたコミュニケーションの怠慢だと見なされることが散見されます。曰くお前ちょっとは空気を読め、と。常識を持て、と。普通に考えればわかるだろ、と。こうした物言いに対して、私たちは断固として言い返したい。わかるわけねえだろ。言語化を怠ることこそコミュニケーションコストの未払いに等しい行為であり、そのコストカットは犯罪的な不当であると。
コミュニケーション不能の責は、「察する」ことができなかった受注側ではなく、充分な「言語化」を行わなかったクライアント側に求められるべきものでしょう。

こうした言語化に対する不当なコストカットの意識は、非言語コミュニケーションへのロマンチックな幻想に深い根を有しています。
スラムダンク』や『ダイハード』のクライマックスのような、「俺たちのあいだに言葉は要らない」というロマンチックな幻想に、人はとにかく魅了されがちです。言葉にせずとも通じ合える関係こそが、いちいち言葉にしなければならないような関係よりも上等だと感じてしまうのです。ちゃんちゃらおかしい話ですね。
云十年連れ添った相手だろうが、左手は添えるだけの仲間だろうが、共にテロリストと戦った相手だろうが、十全にわかりあえることなど、絶対にありえません。他人は、どれだけ親しくなろうとも、理解することなどできないのです。わかりあうことのできない他者と、それでもどうにか折り合いをつけていかなくてはいけないのがホモサピエンスの現実です。諦めましょう。折り合いをつけていくためには、お互いにそれなりのコストを払わなければならないというのもホモサピの宿命です。
なにかを求めるとき支払が発生するというのは、経済だけの道理ではないのです。もしくはあえて、個人間のコミュニケーションとは貨幣でなくて言葉という道具を介した経済活動であると喩えてしまってもいいかもしれません。どちらか片方がふんぞり返って、もう片方に莫大なコストを押し付けるような不平等は、経済であれ人間関係であれ是正されるべきではありませんか。不当な低賃金で人を使い潰してはいけないのと同じように、不十分な言語化のもと相手に「察する」コストを押し付けることもやってはいけないのです。
違法企業a.k.aブラック企業が「やりがい」なんていう言葉で搾取を正当化することと、「あいつは言わないでもわかってくれる」という甘ったれたロマンチシズムは同根です。どちらも不当な搾取なのです。

さて、ここまで読んで「けものフレンズと言えばたつき監督に決まってるだろ!」「そもそも自分でもうまく言葉にできていないのが苦しいのに、言語化を怠るなとか、それこそ弁の立つものの特権意識ではないか!」とお怒りの方もいるでしょう。そうした方はご自分にとってまずご自分自身が他者であるとお考えいただきたい。先だってお伝えした通り、他人とは決して分かり合えません。ご自身と分かり合える日も来ないのです。だからこそ、ご自身を苦しめるもやもやとした感情に対して、果敢に言語化を試みることが、なによりもご自分自身に歩み寄っていく手段であるのだと私は考えます。自身の自身に対する怠慢は、一見自由気ままに見えるフリーランスのほうが、サラリーマンよりよっぽど劣悪な労働環境で忙殺されているケースと重なって見えます。身体が何より資本ですから、どうぞご自愛ください。

今回の「私たちは最高会議」会報(本論)は、あまりに人間関係を経済の論理で語り過ぎているという批判はもっともなものです。ですが、経済の論理で語ってみても、非言語コミュニケーションの称揚は搾取の温床であるということが本論の趣旨であり、それ自体はポスト・逃げ恥の現在においてそこまで目新しいものでもありません。

「やりがい」という虚言でなく「納得のいく賃金」や「快適な労働環境」をきっちり整備してくれる優良企業への褒めもまだ十分とは言えません。もっと褒め称えられるべきです。
同様に、「言わなくてもわかる」なんていう幻想よりも、「わかってほしいから、言語化を怠らない」という態度を共有できる関係も、もっと褒め称えられるべきでしょう。ロマンチックは恥ずかしいだけで役にも立たないのですから。話し合おう!わからないのだから!話し合える私たちは最高!

それでは、また「第n+1回私たちは最高会議」でお会いしましょう。
ごきげんよう! 

2018.09.04

今年の地球で最も強い勢力だという台風がいよいよ近づいてきて、きのうまでの二日間は気圧性の不定愁訴に苛まれていたのだけどいよいよ近づいてくるとむしろ興奮状態になって元気になってくる。台風でハイになるというのは、生き物としてなんらかの危険を感じて、アドレナリンだかなんだかの脳内物質が分泌されるからなのだろうか。しかし「今年の地球上でもっとも強い勢力」って面白い言い回しだ。アメリカの天気予報で「the storongest storm on Earth so far in 2018」と紹介されていたと言う画像が元らしいのだけれど、どこの局なのだろうか。「今年の地球」がいい。今年の町でいちばんの美女。なにか序列をつけるような物言いに、一定の期間を指す言葉が挿し込まれるだけでなんだかすごさがすごいんだかわからなくなる。「いちばん」とか「最も」だとかものごとに序列をつけるような発想に、時間の考えを挿し込むと、途端に序列をつけることそのものが相対化されるというか、盛者必衰が世の理、みたいな趣が表れる。今年はいちばんだが、それはいつだっていちばんだということではない。いつだって今日の自分がいちばん若い、みたいな、ははあという関心と、いやだからなんだよと言いたい気持ちがないまぜになる表現だ。そりゃ視野を狭く持てば持つだけ「いちばん」は増えるでしょうけど、そうして得る「いちばん」になんの意味があるの?うるさいな、なんか「いちばんなんだ!」と思うと楽しいじゃん、そんだけだよ。


とにかく台風ハイで、パソコンで、こうやって猛然と書き出している。こういう書き出し方が久しぶりで、なんというか速さがすごい。というのも、7月末から手書きの日記やアイデアノートを書きつけるようになって、読書量もかなり増えて、なんというか紙や手書きへの嗜好が盛り上がっており、だからSNSやインターネットメディアへの接触が減ってきた。そして打鍵やフリックによる「書く」という運動からもやや遠のいており、手書きと比べて書くことがどう変わるかというと手の疲れ方が全然違うのだけど、それだけでなく保坂和志が「ネコメンタリー」で言っていた、キーボードだと作業だが手書きはサッカーのようなフィールドスポーツみたいだというように、「書く」という運動が身体にフィードバックする感覚が全然違う。この感覚の違いはまずなにより速さにあると思う。自分で読み返して解読できる程度の字を手で書こうとするだけでも打鍵の何倍もの時間と負荷がかかる。紙とペンは摩擦を起こすし、手の運動は指先の運動よりも関与する部分が多いのでそのぶんブレも大きくなる。ともかく手書きをメインにシフトしたいまこうして打鍵すると速い速い、思いついたそばから書き出せる。手書きの場合「こう書いていこう」と思って書き始めると、書いているそばから当初のプランを忘れていくし、手も疲れるのでプラン通りだらだらと書き出すのがだるくなってきて、結局は当初考えていたのとはてんでちがった方向に文章が決着することが多い。記憶力や根気の弱さによって、自分の考えとはちがったものが書かれていくというのも手書きの面白さで、それは頭にあるものをただ出力しているのでなく、この身体全体で書いているというような喜びだ。


打鍵の速さは、「こう書いていこう」と思った通りに素早く効率よく出力できるから、便利だが「書く」という行為から得られる喜びは貧しい、と言い切れたら面白いのだけど、こうやって思うままに書きたいことを書いていき、そのスピードにつられてどんどん書きたいことが脳裏によぎっては消え、消えきる前に打鍵して捉えてさらに先に書き進んでという面白さは、手書きがサッカーならこっちは卓球だというような、スピードの快楽がある。手書きはお散歩で、打鍵は音ゲー、というような気もする。とにかくどちらもそれぞれ面白い。

魂にとってコンピューターはいいものではなかったという推論がある。 確かに、そういう部分もあるだろう。しかしわたしは便利さを取る。もしも二倍の速さで書けて、作品の質がまったく損なわれないのだとしたら、わたしはコンピューターのほうを選ぶ。書くというのはわたしが飛ぶ時。書くというのは情熱を燃やす時。書くというのはわたしが左のポケットから死を取り出し、そいつを壁にぶつけて、跳ね返ってくるのを受け止める時。


チャールズ・ブコウスキー中川五郎訳『死をポケットに入れて』(河出文庫


ブコウスキーはこう言っているし、これを読んだとき僕は「そうだそうだ!大事なのは道具でなく人間だ」と快哉を叫んだように思うのだけど、そもそもブコウスキーはタイプライターからMacに持ち替えたのであって、打鍵から打鍵への移行だったらそりゃ便利なコンピュータのほうがいいでしょうよといまは思う。大事なのは運動であり、運動する主体である人間だ。道具はその運動を誘発する媒介に過ぎないが、ある道具がなければありえない運動だってある。


ブコウスキーは大切なのは道具ではなくそれを使う人間だというようなことを書いた。この人文主義的態度に僕も追随する。たかが道具だ。けれども、そのたかが道具は人間の振る舞い方を規定もする。マクルーハンが言うように、道具=テクノロジーは、すべからく身体拡張の媒介=メディアだ。道具を使う人間のほうが道具よりもえらいに決まっているが、その道具によって人間の身体のあり方は結構変わるということだ。どんな身体の状態で、どんな感覚を増幅・拡張させたいのか、それによって道具を使い分けるから人間は道具よりえらいのであって、一つの道具だけを使うようになったとき、この主従関係はあっさり逆転するだろうとも思う。


描きたいものに応じて絵筆を持ち替えるように、書きたいものに応じてペンとキーボードとタッチパネルをそれぞれ使いわける。そうやって道具をとっかえひっかえ同じようなことを繰り返すのは楽しい。自分にとっての楽しさが打鍵や筆記といった運動ではなく、もうすこし抽象的な「書く」という行為そのものにあると確認すること、そのうえで「書く」という行為の具体的実践のバリエーションを試みること。それらぜんぶが楽しいし、嬉しいし、喜びだ。

2018.08.27

「今日は暑いので早めに帰ろう。帰ったらおしゃべりをしよう」と昨日のお出かけの終わりに言って、なにを話すのと聞かれたので「奥さんの素晴らしさについて」だと応えると、そういうのはいいや、そういうのはブログにして、おしゃべりしちゃうと明文化されないし、ブログだとアーカイブが残って何度でも見返せるからと言われて、アーカイブを残すって保管するものを保管するみたいなあれじゃないかなと思うし、そもそもたぶん奥さんはこの通りには言っていないのでアーカイブを残すなんて気持ちの悪い言い回しをついつい書いてしまったのは単純に低気圧でいま、あたまが割れるように痛くて、実際たったいま、山手線の車外では通り雨というか夕立ちというか、そういうのがワーッと降り出した。向かいの席の女の子が「ワンチャンまじで怒ってもいい」ときっぱりと言っていて、そのあと「いや、でもまあ怒るのはあれか」と迷って、きっぱり言い切ったあと逡巡へと至るその流れがなんだか誠実な感じがしてよかった。歌舞伎みたいなボリュームの金髪のその人が、隣の友達のどんな怒りを肯定したのかはわからないけれど、きっぱりと一度肯定した、そのうえで、友達の感情について断言することへの居心地の悪さを感じて少し迷うという、その一連の感情の動きがその人と友達との関係がよいものであるのだろうなあと勝手に思えてしまうものだった。個人の「よさ」は、こういう誰かや何かとのあいだに生起するものであって、その人個人の特性ではない。さっき「ワンチャンまさかの遅刻じゃね」と渋谷で降りていった彼女の「よさ」が、友達との会話の断片に滲み出る友達との関係性のなかにあること。物や人とどのような関係をとり結ぶか、個性だとかいうものはたぶんそれだけのことだ。

 


奥さんを褒めることは、なので僕と奥さん、誰かと奥さん、何かと奥さんとのあいだに醸し出されるなにかを褒めるということだ。奥さんもまた、誰かを苦しませたり悩ませたり不安にさせるものに対してきっぱりと怒る。それも理論立てて怒る。その論理的な「怒ってもいい」という表明は、あまりに合理的であるために我が家では「おっしゃる通り魔」と呼ばれる。反論の余地のない「おっしゃる通り」な言葉は、ときにない余裕をさらになくす。正論でメッタ刺しだ。我が家ではそうした正論に対して「おっしゃる通り魔」と茶化すことで、言語化が正しすぎたり精確すぎたりすることを避ける。これはかなり有用な生活の知恵だと思うので是非みなさんも覚えて帰ってください。行きすぎた言語化、理論化はときにひとを追い詰めます。ぼくらは生活の当事者であり研究者ではないので、突き詰めすぎないという工夫もまた必要なのかもしれません。それでも、なるべく具体的に精確に言語化しようという試みは、言葉にならないがゆえに手の施しようがないモヤモヤやイライラを、とりあえず対処のできるto DOへと変換してくれるので大切です。本日ご紹介したい奥さんの素晴らしいところは、洞察を課題抽出までに留め、そこから先の精確な言語化を保留できるそのバランス感覚です。僕はさらにそこから理念みたいなところまで突っ走りがちなので、奥さんに「駄弁りはいいからとりあえずやってみたら?」「いや、そこまで一般化はしてない」などと冷静に今この生活から手を打てるto DOに引き戻してくれるその粘り強い現実主義に日々すごいなあと思います。実際今年の夫婦の目標は「なかよく楽しく元気よく、そして美しく」で、前半は従来どおりなので後半の「そして美しく」こそが肝要なのですが奥さんは具体的に金と手間をかけて、どんどん綺麗になっていきます。僕がああでもないこうでもないと空論をこねくり回している間に、黙々とやるべきことを選定し、そこに具体的なリソースを投入して目に見える成果を上げている。

 


僕や他の人の相談とも愚痴とも煮え切らないモヤモヤに対する態度も、「美しく」という観念的な目標に対しても、奥さんのアプローチはいつでも親身にまっすぐ相手のことを見据えて、曖昧なものをひとつひとつ具体的なものへと分解していく。それらを組み立て直すのは相手の仕事だから、そこまで手を出すことはしない。自分ごとである場合、ひとつひとつに現実的な対処を試してみる。このように抽象的に書くのはブログだからあんまり具体的なことは書かないというのもあるけれど僕がこういうふうにしか書けないし考えられないからだ。奥さんの具体的な思考や現実的な実践をみると、これが知的ということだよなあとしみじみ思い知らされる。