第n回私たちは最高会議会報(2018.09.07)

昨晩開催された「第n回私たちは最高会議」には奥さんをはじめ私自身にもご参加いただき、たいへん実りのある議論が活発になされました。なかでも「私たちはツーカーではないという前提を維持しているので最高」という奥さんの発言には会場全体からの賛意の声が次々に上がりました。

夫婦に限らずあらゆる人間関係は、ともかく言語化というコストを嫌う傾向にあります。ツーと言えばカー、エジソンと言えばえらいひと、けものフレンズと言えばたつき、そんなことは言わずもがなで、言語化など野暮というもの。そういった傾向が根強く存在するのです。

このたびの「第n回私たちは最高会議」でなされたのは、こうした傾向に対する批判です。「いやいやいやいや、言わなきゃわかんないっしょ」というツッコミを、私たちは世に問いたい。

人間関係において、「察することができない」というのはなにか人間性の欠陥であるとか、はたまたコミュニケーションの怠慢だと見なされることが散見されます。曰くお前ちょっとは空気を読め、と。常識を持て、と。普通に考えればわかるだろ、と。こうした物言いに対して、私たちは断固として言い返したい。わかるわけねえだろ。言語化を怠ることこそコミュニケーションコストの未払いに等しい行為であり、そのコストカットは犯罪的な不当であると。
コミュニケーション不能の責は、「察する」ことができなかった受注側ではなく、充分な「言語化」を行わなかったクライアント側に求められるべきものでしょう。

こうした言語化に対する不当なコストカットの意識は、非言語コミュニケーションへのロマンチックな幻想に深い根を有しています。
スラムダンク』や『ダイハード』のクライマックスのような、「俺たちのあいだに言葉は要らない」というロマンチックな幻想に、人はとにかく魅了されがちです。言葉にせずとも通じ合える関係こそが、いちいち言葉にしなければならないような関係よりも上等だと感じてしまうのです。ちゃんちゃらおかしい話ですね。
云十年連れ添った相手だろうが、左手は添えるだけの仲間だろうが、共にテロリストと戦った相手だろうが、十全にわかりあえることなど、絶対にありえません。他人は、どれだけ親しくなろうとも、理解することなどできないのです。わかりあうことのできない他者と、それでもどうにか折り合いをつけていかなくてはいけないのがホモサピエンスの現実です。諦めましょう。折り合いをつけていくためには、お互いにそれなりのコストを払わなければならないというのもホモサピの宿命です。
なにかを求めるとき支払が発生するというのは、経済だけの道理ではないのです。もしくはあえて、個人間のコミュニケーションとは貨幣でなくて言葉という道具を介した経済活動であると喩えてしまってもいいかもしれません。どちらか片方がふんぞり返って、もう片方に莫大なコストを押し付けるような不平等は、経済であれ人間関係であれ是正されるべきではありませんか。不当な低賃金で人を使い潰してはいけないのと同じように、不十分な言語化のもと相手に「察する」コストを押し付けることもやってはいけないのです。
違法企業a.k.aブラック企業が「やりがい」なんていう言葉で搾取を正当化することと、「あいつは言わないでもわかってくれる」という甘ったれたロマンチシズムは同根です。どちらも不当な搾取なのです。

さて、ここまで読んで「けものフレンズと言えばたつき監督に決まってるだろ!」「そもそも自分でもうまく言葉にできていないのが苦しいのに、言語化を怠るなとか、それこそ弁の立つものの特権意識ではないか!」とお怒りの方もいるでしょう。そうした方はご自分にとってまずご自分自身が他者であるとお考えいただきたい。先だってお伝えした通り、他人とは決して分かり合えません。ご自身と分かり合える日も来ないのです。だからこそ、ご自身を苦しめるもやもやとした感情に対して、果敢に言語化を試みることが、なによりもご自分自身に歩み寄っていく手段であるのだと私は考えます。自身の自身に対する怠慢は、一見自由気ままに見えるフリーランスのほうが、サラリーマンよりよっぽど劣悪な労働環境で忙殺されているケースと重なって見えます。身体が何より資本ですから、どうぞご自愛ください。

今回の「私たちは最高会議」会報(本論)は、あまりに人間関係を経済の論理で語り過ぎているという批判はもっともなものです。ですが、経済の論理で語ってみても、非言語コミュニケーションの称揚は搾取の温床であるということが本論の趣旨であり、それ自体はポスト・逃げ恥の現在においてそこまで目新しいものでもありません。

「やりがい」という虚言でなく「納得のいく賃金」や「快適な労働環境」をきっちり整備してくれる優良企業への褒めもまだ十分とは言えません。もっと褒め称えられるべきです。
同様に、「言わなくてもわかる」なんていう幻想よりも、「わかってほしいから、言語化を怠らない」という態度を共有できる関係も、もっと褒め称えられるべきでしょう。ロマンチックは恥ずかしいだけで役にも立たないのですから。話し合おう!わからないのだから!話し合える私たちは最高!

それでは、また「第n+1回私たちは最高会議」でお会いしましょう。
ごきげんよう! 

2018.09.04

今年の地球で最も強い勢力だという台風がいよいよ近づいてきて、きのうまでの二日間は気圧性の不定愁訴に苛まれていたのだけどいよいよ近づいてくるとむしろ興奮状態になって元気になってくる。台風でハイになるというのは、生き物としてなんらかの危険を感じて、アドレナリンだかなんだかの脳内物質が分泌されるからなのだろうか。しかし「今年の地球上でもっとも強い勢力」って面白い言い回しだ。アメリカの天気予報で「the storongest storm on Earth so far in 2018」と紹介されていたと言う画像が元らしいのだけれど、どこの局なのだろうか。「今年の地球」がいい。今年の町でいちばんの美女。なにか序列をつけるような物言いに、一定の期間を指す言葉が挿し込まれるだけでなんだかすごさがすごいんだかわからなくなる。「いちばん」とか「最も」だとかものごとに序列をつけるような発想に、時間の考えを挿し込むと、途端に序列をつけることそのものが相対化されるというか、盛者必衰が世の理、みたいな趣が表れる。今年はいちばんだが、それはいつだっていちばんだということではない。いつだって今日の自分がいちばん若い、みたいな、ははあという関心と、いやだからなんだよと言いたい気持ちがないまぜになる表現だ。そりゃ視野を狭く持てば持つだけ「いちばん」は増えるでしょうけど、そうして得る「いちばん」になんの意味があるの?うるさいな、なんか「いちばんなんだ!」と思うと楽しいじゃん、そんだけだよ。


とにかく台風ハイで、パソコンで、こうやって猛然と書き出している。こういう書き出し方が久しぶりで、なんというか速さがすごい。というのも、7月末から手書きの日記やアイデアノートを書きつけるようになって、読書量もかなり増えて、なんというか紙や手書きへの嗜好が盛り上がっており、だからSNSやインターネットメディアへの接触が減ってきた。そして打鍵やフリックによる「書く」という運動からもやや遠のいており、手書きと比べて書くことがどう変わるかというと手の疲れ方が全然違うのだけど、それだけでなく保坂和志が「ネコメンタリー」で言っていた、キーボードだと作業だが手書きはサッカーのようなフィールドスポーツみたいだというように、「書く」という運動が身体にフィードバックする感覚が全然違う。この感覚の違いはまずなにより速さにあると思う。自分で読み返して解読できる程度の字を手で書こうとするだけでも打鍵の何倍もの時間と負荷がかかる。紙とペンは摩擦を起こすし、手の運動は指先の運動よりも関与する部分が多いのでそのぶんブレも大きくなる。ともかく手書きをメインにシフトしたいまこうして打鍵すると速い速い、思いついたそばから書き出せる。手書きの場合「こう書いていこう」と思って書き始めると、書いているそばから当初のプランを忘れていくし、手も疲れるのでプラン通りだらだらと書き出すのがだるくなってきて、結局は当初考えていたのとはてんでちがった方向に文章が決着することが多い。記憶力や根気の弱さによって、自分の考えとはちがったものが書かれていくというのも手書きの面白さで、それは頭にあるものをただ出力しているのでなく、この身体全体で書いているというような喜びだ。


打鍵の速さは、「こう書いていこう」と思った通りに素早く効率よく出力できるから、便利だが「書く」という行為から得られる喜びは貧しい、と言い切れたら面白いのだけど、こうやって思うままに書きたいことを書いていき、そのスピードにつられてどんどん書きたいことが脳裏によぎっては消え、消えきる前に打鍵して捉えてさらに先に書き進んでという面白さは、手書きがサッカーならこっちは卓球だというような、スピードの快楽がある。手書きはお散歩で、打鍵は音ゲー、というような気もする。とにかくどちらもそれぞれ面白い。

魂にとってコンピューターはいいものではなかったという推論がある。 確かに、そういう部分もあるだろう。しかしわたしは便利さを取る。もしも二倍の速さで書けて、作品の質がまったく損なわれないのだとしたら、わたしはコンピューターのほうを選ぶ。書くというのはわたしが飛ぶ時。書くというのは情熱を燃やす時。書くというのはわたしが左のポケットから死を取り出し、そいつを壁にぶつけて、跳ね返ってくるのを受け止める時。


チャールズ・ブコウスキー中川五郎訳『死をポケットに入れて』(河出文庫


ブコウスキーはこう言っているし、これを読んだとき僕は「そうだそうだ!大事なのは道具でなく人間だ」と快哉を叫んだように思うのだけど、そもそもブコウスキーはタイプライターからMacに持ち替えたのであって、打鍵から打鍵への移行だったらそりゃ便利なコンピュータのほうがいいでしょうよといまは思う。大事なのは運動であり、運動する主体である人間だ。道具はその運動を誘発する媒介に過ぎないが、ある道具がなければありえない運動だってある。


ブコウスキーは大切なのは道具ではなくそれを使う人間だというようなことを書いた。この人文主義的態度に僕も追随する。たかが道具だ。けれども、そのたかが道具は人間の振る舞い方を規定もする。マクルーハンが言うように、道具=テクノロジーは、すべからく身体拡張の媒介=メディアだ。道具を使う人間のほうが道具よりもえらいに決まっているが、その道具によって人間の身体のあり方は結構変わるということだ。どんな身体の状態で、どんな感覚を増幅・拡張させたいのか、それによって道具を使い分けるから人間は道具よりえらいのであって、一つの道具だけを使うようになったとき、この主従関係はあっさり逆転するだろうとも思う。


描きたいものに応じて絵筆を持ち替えるように、書きたいものに応じてペンとキーボードとタッチパネルをそれぞれ使いわける。そうやって道具をとっかえひっかえ同じようなことを繰り返すのは楽しい。自分にとっての楽しさが打鍵や筆記といった運動ではなく、もうすこし抽象的な「書く」という行為そのものにあると確認すること、そのうえで「書く」という行為の具体的実践のバリエーションを試みること。それらぜんぶが楽しいし、嬉しいし、喜びだ。

2018.08.27

「今日は暑いので早めに帰ろう。帰ったらおしゃべりをしよう」と昨日のお出かけの終わりに言って、なにを話すのと聞かれたので「奥さんの素晴らしさについて」だと応えると、そういうのはいいや、そういうのはブログにして、おしゃべりしちゃうと明文化されないし、ブログだとアーカイブが残って何度でも見返せるからと言われて、アーカイブを残すって保管するものを保管するみたいなあれじゃないかなと思うし、そもそもたぶん奥さんはこの通りには言っていないのでアーカイブを残すなんて気持ちの悪い言い回しをついつい書いてしまったのは単純に低気圧でいま、あたまが割れるように痛くて、実際たったいま、山手線の車外では通り雨というか夕立ちというか、そういうのがワーッと降り出した。向かいの席の女の子が「ワンチャンまじで怒ってもいい」ときっぱりと言っていて、そのあと「いや、でもまあ怒るのはあれか」と迷って、きっぱり言い切ったあと逡巡へと至るその流れがなんだか誠実な感じがしてよかった。歌舞伎みたいなボリュームの金髪のその人が、隣の友達のどんな怒りを肯定したのかはわからないけれど、きっぱりと一度肯定した、そのうえで、友達の感情について断言することへの居心地の悪さを感じて少し迷うという、その一連の感情の動きがその人と友達との関係がよいものであるのだろうなあと勝手に思えてしまうものだった。個人の「よさ」は、こういう誰かや何かとのあいだに生起するものであって、その人個人の特性ではない。さっき「ワンチャンまさかの遅刻じゃね」と渋谷で降りていった彼女の「よさ」が、友達との会話の断片に滲み出る友達との関係性のなかにあること。物や人とどのような関係をとり結ぶか、個性だとかいうものはたぶんそれだけのことだ。

 


奥さんを褒めることは、なので僕と奥さん、誰かと奥さん、何かと奥さんとのあいだに醸し出されるなにかを褒めるということだ。奥さんもまた、誰かを苦しませたり悩ませたり不安にさせるものに対してきっぱりと怒る。それも理論立てて怒る。その論理的な「怒ってもいい」という表明は、あまりに合理的であるために我が家では「おっしゃる通り魔」と呼ばれる。反論の余地のない「おっしゃる通り」な言葉は、ときにない余裕をさらになくす。正論でメッタ刺しだ。我が家ではそうした正論に対して「おっしゃる通り魔」と茶化すことで、言語化が正しすぎたり精確すぎたりすることを避ける。これはかなり有用な生活の知恵だと思うので是非みなさんも覚えて帰ってください。行きすぎた言語化、理論化はときにひとを追い詰めます。ぼくらは生活の当事者であり研究者ではないので、突き詰めすぎないという工夫もまた必要なのかもしれません。それでも、なるべく具体的に精確に言語化しようという試みは、言葉にならないがゆえに手の施しようがないモヤモヤやイライラを、とりあえず対処のできるto DOへと変換してくれるので大切です。本日ご紹介したい奥さんの素晴らしいところは、洞察を課題抽出までに留め、そこから先の精確な言語化を保留できるそのバランス感覚です。僕はさらにそこから理念みたいなところまで突っ走りがちなので、奥さんに「駄弁りはいいからとりあえずやってみたら?」「いや、そこまで一般化はしてない」などと冷静に今この生活から手を打てるto DOに引き戻してくれるその粘り強い現実主義に日々すごいなあと思います。実際今年の夫婦の目標は「なかよく楽しく元気よく、そして美しく」で、前半は従来どおりなので後半の「そして美しく」こそが肝要なのですが奥さんは具体的に金と手間をかけて、どんどん綺麗になっていきます。僕がああでもないこうでもないと空論をこねくり回している間に、黙々とやるべきことを選定し、そこに具体的なリソースを投入して目に見える成果を上げている。

 


僕や他の人の相談とも愚痴とも煮え切らないモヤモヤに対する態度も、「美しく」という観念的な目標に対しても、奥さんのアプローチはいつでも親身にまっすぐ相手のことを見据えて、曖昧なものをひとつひとつ具体的なものへと分解していく。それらを組み立て直すのは相手の仕事だから、そこまで手を出すことはしない。自分ごとである場合、ひとつひとつに現実的な対処を試してみる。このように抽象的に書くのはブログだからあんまり具体的なことは書かないというのもあるけれど僕がこういうふうにしか書けないし考えられないからだ。奥さんの具体的な思考や現実的な実践をみると、これが知的ということだよなあとしみじみ思い知らされる。

2018.08.15

この一週間くらい、奥さんと猛然とおしゃべりをすることが増えていて、話せば話すほど出すもん出して、聞けば聞くほどすっきりした視界からあたらしいものが染み入ってくるような感覚がある。

 


子どものころからなにか外で嫌なことや違和感と出くわすと、当時としてはものすごい夜更けの23時とかまで父や母と猛然とおしゃべりをし、自分なりに腑に落とすということをやってきた。おしゃべりは違和感の咀嚼であり消化であり排泄である。食事は好きな人としたほうがおいしい、というよりも、好きな人との食事は料理がどうあれ楽しい。奥さんはいまの僕にとってこの人と囲めばどんな食卓も最高になるというような最高の人だ。ここ最近の僕は便秘がちでありかつ常に空腹だった。奥さんとのおしゃべりは、みっしり詰め込んだ口の中のものを落ち着いて噛み砕いて、いまの自分に必要なものを取り入れて、いつのまにか取り込んでしまっていた「呪い」を外に出すところまで、いただきますからごちそうさままで伴走してもらうような気持ちになる。太古の昔からおしゃべり上手を助産師に喩えることがあるけれど、産めないからわからないけれど、奥さんとのおしゃべりは収穫だけでなく、種付けのところからトータルサポートしてもらった感じがあってすごい。耳かきをしていて思いがけずごっそり垢がとれた時のようなえもいわれぬ快感がいくつもあった。

 


あっちこっちに脱線と連想を散らかすのがおしゃべりであるので、それをまとめるというのは素敵なレストランに対して食べログで点数をつけるのと同じくらい野暮というものだけれど、食べログは便利なので、むりやりまとめると、「よい読み手でありたいこと」「ボトムアップリテラシー*を上げていく困難さ」「所属するところの価値観を否応なく内面化してしまう怖さについて」という互いに連関する三つのテーマについて猛然としゃべっている。

*ここでいうリテラシーとは読み手の力量としての「読み方の質」のような意味で使っている。

 


たとえば僕が雑誌編集者だとして、僕は第一の「読み手」として、優れたコンテンツに耽溺し、そのコンテンツから引き起されるさまざまな連想によってほかのコンテンツ同士を結び付けたりしながらひとつの「読み方」をつくるような仕事をしたいと思っているとしよう。自分の所属する雑誌にもそうやって、コンテンツの「読み方」をより深めたり、これまでにない視座を提示するといった「読み手」としての矜持を期待している。けれどもその雑誌は、数々のステークホルダーが作り上げる「実在しないダサい読者」、センスもリテラシーも最低レベルの読者のレベルに合わせてものを作ることが常態化している。いやいや、うちの雑誌の読者のセンスやリテラシーを舐めんなよ、と僕は思う。実際にどんどんダサくなっていく雑誌をどうにかしようとするけれど、平のままでできることなどたかが知れている。それならば偉くなってトップダウンで変えてやると意気込むけれど、長く勤めるうちに「いや、そうは言ってもあそこの広告主に逆らえないしな」みたいな事情にもあかるくなって、気がつけば自分のセンスやリテラシーがどんどん「実在しないダサい読者」に近づいていっていることに気がついてゾッとする。

もともとこの雑誌が好きで就職したはずなのに、その雑誌がダサくなっていくのを止められない。どころかその転落に自分は関与すらしている。どうにか食い止めたいが、そのために頑張れば頑張るほど、ダサくする側の倫理を内面化していっていることに気がつく。「よい読み手でありたい」と思って選んだ場所を「ボトムアップでよりよい場所しようとしても難しく」、かといってその場への影響力を持つためにはその場の倫理にかなった振る舞いが求められ、その振る舞いは遠からず「その場の倫理の内面化に繋がる」。

 


僕は出版社で務めたこともないし、だから上記はぜんぶ妄想なのだけれど、こういった内面化はどんなにいやいや通っている会社でも起こりうる。話しているとき、会社を擁護するような物言いになることがある。奥さんにそう指摘されたとき心底ゾッとした。職場で、仕事に打ち込むあまり離婚する人を飽きるほど見てきたと話したとき、そういう人たちの配偶者は、次第に会社の倫理を内面化するその人の変化が耐えられなかったんだと思う、と応えた奥さんは、自分では自分のことを感情と論理の二項対立に捉われがちでしかも論理にかなり偏っている人間だと考えているようだけれど、ここまで細やかな想像力が働く人の論理というのは感情と同じことだ。論理と感情というのは対立するものではなく、お互いに補い合ったり、分かちがたく混ざったりしているものだ。奥さんの情緒ある知性と理知的な感性が、僕はものすごく好きだ。

 


なにかをがまんして飲み込んだ時点でそこに「呪い」がある。違和を感じつつもがまんすることはその違和感の原因そのものを内面化することの第一歩だ。そうはいってもこれは生活のために仕方のないことだからと、知らず知らずのうちにがまんしてきたことが自分にもあったようだ。

わたしは収入があるあなたではなく、理知的でチャーミングなあなたがよくて結婚した。離婚したあなたの上司の配偶者も、最初は似たような気持ちだったんじゃないか。もちろん収入があるに越したことはないしお金はすごく大事、それがなによりも大事だというわけではない。というようなことを、もっと格好よく言ってもらえた時、たしかに「呪い」の解かれる音が聞こえた。僕はいつの間にか、より良い生活のためにより稼がなくちゃいけないし、そのためにはがまんしてでも働くほうがいいと思い込まされていた。はやめに気がつけてよかった。ぼくはなによりも奥さんを、家にいるときの気分の良さを大切にしたい。それを損ねるようなものは、なるべく少なくしていこうと思った。

 


こうしたおしゃべりの猛然さのきっかけは、保坂和志のABCの対談に行ったことだったかもしれない。保坂和志はそこで「安定に不安を感じる人がいるように、僕は帰属することに恐怖を感じる」というようなことを機嫌がよさそうにしゃべっていて、納得しかねたような質問者に「いや、たとえば自分が高校生で、同級の友達といてこいつら最高だなっていうのとさ、この高校最高だなっていうのは全然ちがうわけじゃん」というようなことを応えていて、とてもよかった。

帰属という言葉はなにかに従うこと、なにかの所有下にあることというような印象を受けるし、調べてみたらやはりそのような意味だからこの印象は個人の勝手な印象ではなくて、だいたい共有されているものだろう。僕もそうしたことにかなりの拒絶や嫌悪の気持ちを持っている。いまのところこれはまだ生理的に無理などという安易な言い方でしか説明ができない。

別のタイミングでこの日の対談相手が「保坂さんのご家庭はホカホカしてますもんね」みたいなことを言っていたのも相まって、「帰属への恐怖」と「好きな人たちを大切にすること」は、全く矛盾しないというか別の話なのだと腑に落ちたのがうれしかった。大好きな家族や友達や猫に対して尽くすのは帰属ではない。家族も会社もおなじように制度ではあるけれど、その人にとって家の人が友達や猫と同じようなものであればべつにはたから見て制度であろうとなかろうとそんなことはどうでもいい。家族にせよ会社にせよそれが帰属しなければいけないものになったとき、恐怖の対象に転ずる。怖いのは制度の帰属を強いる側面であって、制度のぜんぶではない。猫や友達のように尽くせる奥さんが実在するのだから、猫や友達の様に付き合える会社もあるのだろうか。

 


ここまでの話は、「辺境にいたい ←→ 参加したい」という二極のあいだでのバランスのとり方の話のようにも思えてくる。この前電車で久しぶりに開いた松岡正剛の「千夜千冊」のなかで、『世界の中にありながら世界に属さない』という本が紹介されていた。いいタイトルだと思った。そういうバランスがいい具合なのかもしれない。最新の投稿を三つくらい読んで、「意識は自分のものではない。とはいえ意識が自分以外のなにかに属しているわけでもない」というようなことを考えて、これもここまでの話にかなり繋がっていくように思うのだけどこれについてはまだ言葉になってこない。この感じを忘れないほうがいいように思って、メモ代わりにツイッターに支離滅裂な投稿を残しておいた。

 


昨晩遅くに最新話がアップされた『ビルドの説』にもここまでのおしゃべりに繋がっていく気配を感じている。気圧の高低など、他人から見たら些細な与件であっさり幸せにマイナス補正がかかる僕たちは、そうしたマイナス補正の原因を特定し、分析し、受ける影響をなるべく少なくするためのシステムをビルドする。そうやって、温存したリソースをなるべくたくさんお家に割きたい。ビルドとは、環境のどこまでを自分のコントロール下に置くかという試行錯誤の実践なのかもしれない。ビルドは楽しい。自分の気分のよさは、自分で作ったり守れたりできると思えるから。

2018.07.25

口の中のあらゆる場所に口内炎がある。
朝まったく起きられないばかりか夜帰宅すると人語があまり理解できない。人語であることはわかるのだけれどそれを処理することを言語野が拒むようなのだ。


人工甘味料はまじでやばい。
「みんなやってるよ」「おいしくて楽しいよ」という誘いにほいほいついていったら身も心もボロボロになる。一度はまると最後。菓子パンが食べたくて食べたくて仕方がなくなる。肌は荒れ髪の毛は抜け疲れやすくなる。イライラもする。菓子パン断ちはまたこれがしんどい。かわりにドライフルーツやナッツをおやつにするとまず財布がおおきな打撃を受ける。財布の余裕のなさが心の余裕を奪い、「ちょとくらいなら……」とふたたび菓子パンに手を伸ばすようになる。そして肌は荒れ髪の毛は抜け疲れやすくなる。イライラもする。


それでも僕は困難を乗り切った。この一週間すっかり菓子パンに手を付けていない。
しかし、それなのに、口の中のあらゆる場所に口内炎がある。朝まったく起きられないばかりか夜帰宅すると人語があまり理解できない。人語であることはわかるのだけれどそれを処理することを言語野が拒むようなのだ。
菓子パンをやめたのにこの仕打ちはなんだ。


疲れがとれない。
もういやだ。
夏か。
これが夏というものなのか。
それならば夏、僕はやっぱりお前が嫌いだ。


お前、といったが、たかだか季節に「お前」と呼びかけることで人格を仮構するようなそんなのも癪だ。夏はなんというか、人じゃないし、ただ、暑い。なんかそういう、不快な、気候変動の産物というか、季節。いや、なんか季節って言葉に情緒があるじゃないですか。そういう情緒も夏にはもはやないと思うのね。なんかもっといやな呼び方はないものか。夏という字を見ただけでうええって怖気だつような、そういう汚らしい表現を夏に対してしたい。


同居人がおいしい夏メニューをよく作ってくれて、夏野菜カレーや冷やし中華やそういうのを食べると「夏も悪くないじゃん、むしろ好きかも」と僕は言った。確かに言った。けれどもあれはなんというか撤回はしないまでも間違いだったとここにお詫びして訂正します。僕は夏が好きじゃない。ぐったりするから。口の中のあらゆる場所に口内炎ができて朝起きれず夜ブローカ野がオーバーヒートし肌は荒れ髪は抜け気持ちは荒み気力は抜けおちる。こんな季節をだれが好きになれるというのか。もういやだ。夏も菓子パンもこれきりにしたい。すこしつらいが仕方がない。楽しいこともあったけど、これらといると僕はどんどん僕を嫌いになっていく。そんなのお互いつらいでしょう。もう終わりにしましょう。お願いだから、終わらせてくれ、頼む。

2018.07.18

奥さんでないころの、奥さんになろうかというタイミングの奥さんにこんなことを言われたことがある。「わたしは色々と綿密に計画立てて、あまりに綿密にシミュレーションするあまり、大事なことほど計画倒れに終わることがままある。あなたはそのへんテキトーそうだから、私が考えすぎているときへらへらと大丈夫大丈夫と言ってくれそうで頼もしい」そう思っていたが、これはもう奥さんは奥さんだっただろうか、ともかく後になって「そう思っていたが案外あなたも考えすぎるきらいがあるから二人でウンウン悩みがちよねー」と苦笑された。


さいきんはslackで日々の帰宅連絡やデートの相談をしているのだけど、行きたいところと行きたいところを繋ぐのお散歩コースをグーグルマップでシミュレーションしてみせてくれたとき、ふとそんなことを思い出した。
そういえば新婚旅行のシミュレーションもグーグルマップで準備してくれていて、そのころ僕は職場のストレスが半端なくてあまりちゃんと把握できていなかった。冒頭の苦笑はそのころのものだったろうか。いや、そのころは結構怒られたような記憶がある。ともかく今となってはあのころのすべてはストレスフルな職場と、あまりに自分本位な上司たちへの怒りしか湧かない。それに屈してしまった自分への怒りもあるが、怒りよりもかわいそうだという気持ちが強い。出発前はけっこう苦しかったが新婚旅行は最高だった。いまでもバルセロナのからっとした、いつまでも続く昼を思い出す。ここは暑すぎる。


ああいうストレスフルな環境はもうごめんだと思う。いまはそういう状況に対してへらへらとかわす図々しさが多少は身に付いた気でいるが、実際にまたストレスフルな環境に身を置いたとき、この図々しさがあっという間に委縮するということはいいかげん身に沁みてわかっているからだ。へらへら図太くいられる環境に、なるべくいられるようにしたい。環境を自分で選びとり、あるいは作っていくというのは、とてもたいへんなことだが、サラリーマン的な「なすがまま」的な不安定もまた精神衛生上よくない。「なすがまま」っつっても、その流れめちゃ人為的じゃないですか。だったらこちらも人為で抗いますよ。抗わせろよ。


未来のシミュレーションというのは不安しか呼ばない。
そもそもシミュレーションとは「あるシステムの挙動を別のシステムで模擬すること」だとググったら出てきたが、ついでに「シュミュレーション」なのか「シミュレーション」なのか「シュミレーション」なのか不安になってきたが、ともかく未来というのはいまだ何もない。模擬するべきおおもとのシステムが未着であり、定まってもいないのだから、模擬のしようがない。未来の模擬とは、似せるべきものが何かもわからないままに行うモノマネなのだから、不安になって当然だろう。


来るかもわからないものにああだこうだ不安になっても仕方がない。けれども、それらはたぶんだいたいちゃんと来るとわかっているからこそ、来ることだけはなんとなく信じているからこそ、不安になるのだから仕方がないとか言われても仕方がない。


なんというか、来るかもわからないものを不安に待っていることしかできないという状況が気に食わない。こっちから行くべき。しかし、どこへ?


デートの行先はこんなこと考えないで済むからいい。
行きたいところへ行くのだ。
それがより楽しくなるように、出発時刻やコースや予算をシミュレーションする。
行きたいところへよりよく行くために準備するのであって、準備がどうなろうとも行く気持ちは変わらないというのが大事だ。
いまここにありもしない未来のために頭を働かせるよりも、いまここから手足を動かしてみるのが先にあるべきで、さいきんの僕らはすぐ手や足が出るからすごくいいと思う。

 

2018.07.09

先週だかいつだったか、同居人が「自分の書いた文章や作品が好き?」と聞いて、そこにいた人たちが首をかしげたので「好きでもないのになぜ書くの……?」と、ほんとうにさっぱりわからないという顔で言うので面白かった。

そのとき自分が何と答えたか覚えていないけれど、「好きでも嫌いでもないな」というのがいま思うことで、それは「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」という有名な台詞があるけれどそれに近い感覚だ。僕は今まで食ったパンの味をいちいち覚えてはいない。

同居人は作品を作る人への問いかけのつもりで、自分の作ったものが好きでもないのにわざわざ自分で何かを作る人の気持ちがわからないと言ったようだった。だからこういう日記代わりにだらだら書いているブログなんかは彼女の想定するいわゆる作品ではないかもしれない。ちがうかもしれないなと思いつつ、考え始めてしまったのでこのブログに対する感じを考えてみると、僕はここに書いたものに対して好悪の判断をしようという発想はないみたいだった。

お芝居を作るときや友達のメディアに記事を書くときも、多少気持ちのモードというかそういうものが異なりはするけれど、出来上がったものへの判断はわりあいどうでもいいなという感覚は変わらないようにも思える。なんというか、書くものによって変わるモードというのは、自転車のギアの切り替えのようなもので辿りつきたいところから要請される遠さや速さなんかによって切り替わるのだけど、自転車に乗るという行為自体は変わらないというような感じで、なぜ自転車で喩えはじめてしまったのか分からないけれど、こういう普段使いの書き物と、よそ行きの書き物とでは、書き方の違いは確かにあるが書くということそれ自体は変わらないというようなことが言いたい。

僕は書くという行為それ自体が好きで、書き終わったもののことはどうでもいいとまでは言わないけれど、どうでもいい。パンの味がどうというよりも、食べるという行為自体がたのしいから食べるのだ。
読み返したときにまた何かを書きたくなるようなものであれば、自分で書いたものも悪くはないなと思う。お芝居の場合、自分で書いたものが他人によって発話されてはじめて意味のあるものだし、その意味というのも書いた本人の想定とはまったく関係のない方向に連想が繋がっていくこともしばしばで、そういう意味ではいつまでたっても完成しない。いつまでたっても完成しないというのはいつまでも書き直し続けていてもいいような気持ちになって楽しい。だからこういうブログに書くものよりもお芝居のために書いたものの方が好きなような気もするけれどそれは書く楽しさが長く続くからであって、完成された作品への愛着ではなさそうだ。

自分の書いたものが人に読まれるのも面白いけれど、人の書いたものを読むのはもっと面白い。本を読むと、その本に触発されて書き出されるものがある。書き出されるものはまた別の本を読むことを要請し、その読書の経験はまたべつの書くことを呼び寄せる。読むことと書くことはほとんど同じことだ。よりよく書くためにはよく読まなければと思うし、よりよく読むためにこそ自分でも書いてみる。読みながら触発されたものを自分でも書いてみたときの「なるほど、こんな書き方もあるのか!」という発見が気持ちいい。僕は野球をみないけれど、それはたぶん僕に野球をやった経験がないからだ。子供のころ野球で遊んだひとたちにとって、テレビで誰かがヒットを打つことは、自分の身体経験となにかしら響きあっている。テレビの誰かのヒットの喜びはそのまま見ている人の身体の喜びとして経験されうる。「なるほど、こんな体の使い方があったのか!」

野球で話してしまうとどうしてもただの妄想になってしまうが、演劇を見るときの僕はやっぱり自分の演技や演出の経験から演劇を見ている。「なるほどそんな空間の考え方があったのか!」「あの俳優はいま気持ちがいいだろうなあ!」と、いつしか自分の経験のように演劇を経験する。学生時代にちょっと演劇をやって今はほぼたまに見にいくだけというような僕でも、演劇を見るとき見るというよりもやっているという感覚で演劇を経験する。このことを考えるとき僕の演劇を見るやりかたは、ただ週末に草野球のコーチをたまに手伝うくらいの人たちが、テレビの野球をまるで自分の人生のように、なんなら自分の人生以上に熱狂して語るときの感じと似ているのではないかと思う。

本を読むのも似ていて、よく読めていると感じられるとき、読みながら書くこともしているような感じがある。自分でただ書くよりも、読むという行為に触発されて書く経験のほうがずっと豊かに感じるのは、自分の人生以上にテレビの野球に熱狂するのとたぶんほぼ同じことだと思う。自分のことよりも自分のことのように熱狂できるものがあるというのはそれだけで豊かだ。僕は野球は解らないけれど、本を読むことや、演劇を見ることを通してその感じを知っている。野球の身体感覚はぼくにはわからないし、他人のプレーを見ても響きあうものはあまりない。けれども書くという身体感覚であれば響くことがあるかもしれない。その響く感じがもっと欲しい、よりよく読みたい。よりよく読むために書く。素振りのようなもの。ただその素振りそのものもけっこう楽しい。だからこうやってだらだら書いてみる。書き終わった後に「いいもの書いたなあ」とは思わない。たぶん野球をやる人も「いい球投げたなあ」とは思わないんじゃないか。終わった後に思うのは「あー楽しかった」ということだけじゃないか。

『『百年の孤独』を代わりに読む』という本を読んで、ものすごく楽しかった。野球を知らなくても野球に熱狂する人の語ることを聞くのは楽しい。そういう楽しさだった。読むことが書くことと直結しているさまを、なるべく生っぽく記録しようというドキュメンタリーのように感じた。「この人はこう読んだのかあ!」という喜びがある。僕は野球を見ないけれど、誰かが代わりに野球を愛している。僕にはその愛は直接体験はできないし理解もできないけれど、誰かのそういう愛を目の当たりにするのはけっこう嬉しいものだ。僕にはない愛を誰かはたしかに経験している。
僕は足が遅いけれど、足の速い誰かが僕の代わりに走ってくれる。たしか山下澄人がどこかでそんなことを書いていたような気がするのだけど、そこで書かれていたような感じで、僕はたしかに「代わりに読まれた」ように思えた。僕にはできないやり方で、誰かが『百年の孤独』を読んだ。読んでいる。
僕も、誰かにはできないやり方で『百年の孤独』を読みたいと思った。
僕にできないことは誰かが代わりにやってくれる。同じように、誰かにはできないことを、僕は代わりやっているのかもしれない。なぜ読み、なぜ書くのかというと、ぼくはもしかしたら誰かの代わりに読みそして書いているのだという、へんな感覚を持っているからなのかもしれない。読んだり書いたりすることは、なんでだか、ひとりでの行為だという感じがしないのだ。一冊の本は、球場と同じように、複数の読者/観客の身体感覚の響き合う場なのだというと、なんだか格好良すぎるだろうか。

ぼくにとって『『百年の孤独』を代わりに読む』は、知らない誰かが確かに熱狂している、熱狂できない僕の代わりに熱狂してくれている、その感覚がびりびりと響いてくるように感じられる、球場のような場所だった。