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2017.04.18

前の土曜日に好きな先輩とかわいい後輩が結婚式を挙げて、それはとてもいい式だった。
つい嬉しくなって朝まで飲んでしまった。
日曜日もお酒を飲んで、二日酔いと低気圧できのうは瀕死。
ようやく人の心を取り戻したきょうは自分がもう結婚していることについて考えている。

 

結婚しても僕は相変わらずだけれども、相変わらずというのは、お構いなしにいつだって気まぐれに変わり続けているということだけれども、それでも結婚したことで大きく方向転換したことがあるとするならば、それは「構われなくても大丈夫になった」ことだと思う。

「世界が僕のことを相手にしなかったとしても」みたいな、構ってちゃんの精一杯の強がり。
そういうものがなくなった。
こうやって、「自分」と「自分を見る/見ない他人」でできている「世界」を手放せたことは、とてもよいことだ。


自意識は飽きもせず過剰なままだけれど、ぼくとまったく関係のない世界との距離の取り方が、ずっと気持ちのいいものになったように感じられる。

自分に引き付けることのないままに考えられることがうんと増えた。

 

ぜんぶをぜんぶ、自分と関係のあることとして感じなくてもいいんだ。
感じないことに後ろめたさを感じる必要もないんだ。
そういうことはずっと思ってきたことだけれど、自分ごとではないことを自分ごとではないままに、誰かのこととして考えられるようになったというのは、とっても嬉しい進歩なのだけれどまだうまく言葉にできないな。

 

これは自分ごとだと思える、自分に関係のあることなんて、ほんとうにほとんどなんにもなくて、だからこそ、ようやく自分ではない誰かの「世界」への興味がわいてきた、とでも言おうかしらん。

僕の生活と、結婚した先輩たちの生活はほとんど関係ないけれど、僕は先輩たちのあきれ返るほど楽しい毎日を本気で祈ることができる。それは僕らが関係ないからこそなのだ。

 

ああそうか。
「羨ましい」という気持ちがなくなっちゃったのかもしれないな。
「羨ましい」というのは、「ほんとうだったら自分も享受できたはずの、手に入れられなかったものを他人が持っている」という感覚だ。
おおきな欠乏の感覚があるとき、気をつけていないと「自分の持っていないもの」を通してしかものを見られなくなってしまう。

 

ずっと人に羨まれるようにいきたいと思っていたけれど、誰のことも羨ましがらずに生きたいってことだったのかもしれない。
これでようやく、他人ごとを他人ごとのままに真剣に考えることができるだろう。

2017.02.12

ふた晩続けて夜明け前にこわいくらい冴え冴えと目が覚めて、カーテンの隙間からうっすらと射す光が青っぽく照らす奥さんの輪郭の静かなことに、気持ちの凜と張り詰めるのを感じる。
張り詰めているのはお腹で、一昨日から下痢っぽい。
夜中に起きだして便座の上で丸くなるのは、なんだか生きている情けなさや逞しさが凝縮されているようだ。

(昨日の夜明け前のこと)

2017.02.06

いま借りているマンションの工事がはじまって、ベランダには容赦なく足場が組み立てられていく。ようやく部屋の窓から見える位置まで組まれかけている鉄棒が、風にあおられグラグラ揺れているのを眺めながらのんびりとした気持ちになる。

 

今日はお休みなのだ。

 

だから10時くらいからキンキンなる金属音も、工事のにいちゃんたちの話し声も、ぜーんぜん気になんかならない。

簡単な朝ごはんを支度しながらhuluで『死霊のはらわた リターンズ』のシーズン2を見る。

まったくおめざに見るものでも、食事中に見るものでもない。

かわいそうな若者がアスファルトに顔面を擦りつけられ血みどろの頭蓋骨がむき出しになるさまを聞き流しながら、トーストにチョコレートスプレッドを塗る。

おいしい。

 

仕事も佳境なのでタブレットでメールをチェックし、いちおう社用携帯の電源を入れる。

急な用事はなさそうなので見るだけで明日にまわす。

昨晩の洗濯物をちゃきちゃき畳んで大雑把に部屋を片付ける。

ここまでに3人の若者が死んだ。

まだ乾ききっていないものをひとつにまとめて布団乾燥機で急かしにかかる。

亀の水槽の水を入れ替えて餌をやる。

今週の死霊の首も飛んだ。

 

お休みの日は生きてるって感じがする。

仕事が嫌いなわけではないが、お休みの日が好きすぎる。

仕事が楽しくなってきたのは、一番仕事がつらい今年度になってからで、

なんだかんだ手前で責任しょって手前でなんとかしなくちゃいけない状況はアドレナリンがドバドバ出る。

けれどもそうした興奮の中毒になるよりも、家でだらだらすることに愛着を持ったままで生きたいとつよく思う。

仕事で自分や家庭を犠牲にする上司を何人も見た。

そのたびにたかが仕事で「犠牲」を強いられる阿呆くささにげんなりする。

 

自分にとってなにが一番大切なのか。

それが仕事ではないことだけははっきりしている。

たかが仕事、のスタンスで、アドレナリンをドバドバ出してしっかりちゃっかり仕事する。

今はそういうのがいいと思っている。

 

自分にとって嬉しいことは何か。

誰と嬉しくなりたいのか。

どんなひとに、嬉しくなって欲しいのか。

 

ものごとはなんでも、あっけないくらい素直でシンプルな見方をしたほうが具合が良いみたいだ。

 

自分はこれからどんな仕事をしていくかしらん。

そんなことより、今度の奧さんと一緒のお休みにはなにをしようかな。

2016.11.23

今朝、会社に行くためにもそもそと起きだし着替えていたら隣で奥さんが寝返りをうって「えらいね」と言った。
おきてたの、ありがとう。返事はない。寝言のようだった。

先週からふたり揃って風邪をひいて先週は僕がこじらせて今度は奥さんがこじらせた。
相変わらずふしぶしが痛く背中に湿布を貼ってもらって布団に入った。
昨日今日とそのまま起きだして湿布を貼ったまま会社に来てしまい、きょうはオフィスのトイレでぺりぺりとはがした。湿布くさかった。

きのうのガッキーもかわいかった。

まさか毎週火曜日のドラマを楽しみにしながら、職場のトイレで背中の湿布をはがすような大人になるとは思わなかった。なんというか、ふつうだ。
ふつうといえば、ガッキーのふつうさはすごい。メグ・ライアンみたいだ。

 

祝日のお昼休みは休憩室に人が少ないからいい。
電子レンジの順番待ちが嫌いだ。

きのう感想を求められて普通だと思ったお弁当のピーナッツのドライカレーは、ドライカレーだと思ってスプーンで食べる今日はとてもおいしいと感じた。
ドライカレーはドライカレーなんだと思わずに箸で食べるとカレーっぽい何かになる。
おそらく昨日はご飯との配分を間違えていた。
認識ひとつでお弁当の味も変わる。いい加減なものだと思う。

 

今日も早く帰ろう。

2016.09.14

今晩は麻婆ゴーヤどうふ。

 

さいきん会社のお仕事が洒落にならないくらいおかしな状況で、

心身ともにゴリゴリ削られているのがわかる。

新しくはじめた漢方薬のおかげか、ここ数日は仕事から帰ってきてもまだ元気が残っている。

縁日ですくってきた亀は、甲羅の中でだんまりを決め込んでいて元気なのかどうなのかわからなくて心配だったけれど、きょうはすこし動きを見せてくれて少し安心。いまだあまり動かずじっと息を潜めてはいるけれど。とりあえず、死にそうには見えない。

いまもふと見やると甲羅から首をぐっと伸ばしていて、ああよかった生きている息をしていると安心していると、こちらの視線に気がついたのかまたさっと首を引っ込める。

 

亀はうまくすれば20年以上生きるらしい。

それはこれまで生きてきた時間とほぼ同じだ。

だからだろうか。今週の頭くらいからこれからの25年を考えている。

ずっと今の会社にいるのかしら。

いるとして、この会社でどういうふうに進んでいきたいのかしら。

さいきん会社の中でのありたい姿がすっかりわからなくなってしまった。

入社した頃は、ぼんやりとではあれど、なにかあったように思うのだけど。

会社のお仕事のほかに、仕事を持ちたいな、と思う。

別にお金にならなくてもいい。

ただ、会社を通じることなく、「社会」と接したいと思う。

演劇をしたい。

だましだまし、準備を進めている。

 

会社の中での自己の理想像は見失って久しいけれど、

会社の他に仕事の場所を持つことへの憧れはずっと残っている。

遅すぎるということはいつになってもありえないけれど、いい加減、行動に移さないといけないころあいだ。

 

とりあえず、書くことを再開してみる。

今回は、おいしい晩ごはんの備忘録も兼ねて。それだけでもいいから毎日書きたい。

何度目かわからないけれど、こうやって何度だってはじめてみるしかないのだと思う。

 

 

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2016.07.31

夥しいヴァリエーションでぼくら若輩者を追い込む「昔はよかった」という言説のひとつに、
近所のおっかないおじさんの存在というのがある。

近所のおっかないおじさんは、よそのうちの子供だって平気で叱り飛ばす。
そうしたおっさんたちは、家庭や学校の内輪のルールやしがらみとはまた別の「世間」を教えてくれる大事な存在だったんじゃないか。
おっかないおっさんの不在は、子供たちを家や学校のなかに閉じこもりきりにして、世間に通さなきゃいけない義理を教わる機会がなくなってしまった。お、いたわしや現代社会。

以上のような言説は、数年前まで耳にタコができるほどありふれていたように思う。
僕はそうしたおっさんが幅を利かせなくなったいまは、昔と比べてなんていい時代になったんだろうと思う。

自分を律する品性を司る脳の器官は他よりも早死にらしく、年を食うとどうやら多くの人は自身の狭量を隠しておくことができなくなるらしい。
いまでも電車なんかでは若いもんに大きな声で文句を垂れたくてしょうがないじじいと出くわすことがある。さみしいんだと思う。

自分のさみしさをまぎらわすために不機嫌をほうぼうに垂れ流すのは、みっともないことだよ。
みっともないし、許されちゃいけないことだ。

銀座線のホーム、白線の内側でポケモンGOに興じるサラリーマンを、通行の邪魔だと怒鳴りつけるじじいをみて、そんなことを思った。
ああいうじじいが町々の道角にありふれていたという「昔」を思うとぞっとする。

他人のあり方に平気で口を出してくる下品は、近所のおっかないおじさんがなりをひそめた今も、残念ながらありふれている。
みんな、他人に興味関心を持ちすぎなのだ。
ぼくが「人が好き」「仲間」「コミュニケーション第一」みたいな物言いが大嫌いなのは、そうした見境のない他人への興味関心は人を「お局」のようにするからだ。
ひとは誰かに興味を持つと、いつの間にやらその誰かのあり方に口を出すようになる。
「あなたのためなのよ」「みんなが迷惑しているの」なんて言いながら、そこに「あなた」も「みんな」もいなくて、ただ「あなたに興味を持った私の気に入るようなあなたであってほしい」という気味の悪い欲望だけがある。
他人に興味を抱き、他人のあり方に自身の欲望を投影してしまうのはやはりさみしいからなんだと思う。
けれどもさみしさは、他人を侵していい理由には決してならない。

「多様性は、隣人への無関心によって保たれる。」
きのうツイッターにそんなことを書いたら奥さんにふぁぼられた。
そう。ぼくももっと気をつけなくちゃいけない。
うっかりすると、奥さんの関心のぜんぶに関心を持ちたくなってしまう。
でも、興味のないことはそのままにしておいたほうがいいのだ。
一緒にやってみるのは、興味の湧いたことだけで十分。

近所のおっかないおじさんの下品は、町からだいぶ追い出されたようだけれど、家族や友達など、身内から受ける下品はまだまだ根強く許されている。
許していてはいけない。
家族というのは、最も近しい他人のことなのだから。
他人の言動に向けた「あなたのため」という戒めは、「自分の思いどおりであれ」というエゴに他ならない。
他人は思い通りにならないから他人なのだ。
思い通りにならないままに、放っておくのがいい。
互いに決して交わらない側面を「これも自分」と大事に抱えながら、相手とまったく違っていることを悪びれず、ただ一緒にいられればいい。

SNSを駆使した個人が、それぞれ勝手にビッグブラザーを演じて、ますます息苦しい空気の中で、
ぼくは無関心をもてはやそうと思う。

思いやりのある無関心を。

2016.06.10

まだ「子供」と呼ばれても違和感のなかったころから、過ぎた日々を思い出すのが好きだった。
寝る前のお茶の時間。そう、うちには寝る前に家族でお茶を飲む習慣があった。
そのときにあのときの誰それはこうだった。そのとき自分はこんなことを思っていた。
そんな話を次々に取り出しては、よくそんなこと覚えてるね、と言われるのがくすぐったくて好きだった。
なによりも食べ物のことをよく覚えていた。
多くの記憶は、その前後に食べたものと結びついていて、道の駅のおいしくない山菜そばは、そのあとに足を濡らした川の冷たさを連れてくる。
大きな石を積み上げて川の流れを分断して遊んだり、ぬるぬるした石で足を滑らせてひやりとしたり、そういう感覚は山菜そばによって蘇る。
勉強をしていて行き詰まると、角砂糖でも舐めておけば覚えられるんじゃない、と言われるほどに食べ物をきっかけに思い出されるエピソードは豊富だった。

さいきんは、ほとんど何も覚えていられない。
中学高校の記憶はほとんどない。
大学の頃の記憶もあやしい。
そもそも社会人になってからのことだってあぶない。
そういえば頭の中がずいぶん静かだ。
よく覚えていたころは、ずっと頭の中で喋り続けていた。
家族の前で自分の記憶を引き出すときだけ、そのお喋りが外に出てきていたのかもしれないとも思う。外に出ていないだけで、僕はいつでもうるさかった。
いつしか家族といる時間より、外にいることの方が多くなり、その分口数が減っていった。
一時期はそのぶんツイッターなんかに発散していたけれど、それすらしなくなった。
頭のなかの饒舌はすっかり消えて、いまでは自分がまともにものを考えているのかどうかさえあやしい。

年を重ねて、思い出すことが多くなったからかもしれない。
手札が少なければそのぶん素早くカードを切れる。
いまではそもそもどこになにをしまったのかさえ分からなくなっている。

意識的に、言葉に起こしていかないといけないと思う。
仕事にしても、遊びに行くときだって、感覚は感覚のままで立派な思考だけれども、言葉に起こさなければひとには伝わらない。伝わらないどころか、自分自身に出力されることさえないとまでいまは思う。
さいきん自分のことさえどこか他人事のようなのは、たぶん言葉が足りないせいだ。
自分というのも他人だから、ちゃんと言葉で「いまはこういうことを感じているんだよ。考えているんだよ」と言い聞かせてあげないと、どんどんよそよそしくなってくる。

あたまのなかにお喋りを取り戻そう。
できるだろうか。
あたまのなかだけではできなくなるから、書くのかもしれない。