2020.05.31

昼前に起きて、うう、とうめき、お風呂を沸かし入る。寝不足には血流の促進が先決。うう、とうめき、パン・コン・トマテで朝食。すぐにでも寝たいが、寝すぎると夜が大変なのでカールじいさんを観始める。ピクサーは僕は『レミーのおいしいレストラン』までは欠かさず観ていて、そこからが飛び飛びだった。『UP』は邦題が嫌いだが、ビジュアルとコンセプトからして絶対好きだと思ったのだけど、いざ観ると思った以上にエンタメで、そりゃそうなのだけど、もっとしんみりと取り残された愛妻家の再生を観たい気持ちだったので、からっとした楽しさにちょっと拍子抜けした。そもそも空飛んでる時間が短すぎる。

 

昼寝を挟みつつピクサーの沢山の短篇をだらだら観て、夕食後は解散。奥さんが刀剣乱舞しているあいだ、僕はウォーリー、メリダ。きょうはほとんどピクサー漬けだった。ウォーリーは二回目で、まったく覚えていなかったので実質初見で、ウォーリーが可愛かった。ほんとうの初見時、それは奥さんと見たのだけど、内容のダークさにびっくりしたというか、ディストピアSF なんだ! とすこし怖かった気がしたのだけど、いま観るとそうでもなかった。ただ無機物が可愛い映画だった。メリダは初見で、僕は髪がちりちりの赤毛の女の子というのが昔から好きで、けれどもこのビジュアルはそういうルッキズムを無効化させるための表象でもあるはずだな、と思いながら楽しく観た。娘ではなく母を解放の対象とするところが好ましかった。『アナと雪の女王』よりも前に公開されたメリダの方が、僕は好きだったけれど、結局どちらも社会に包摂される以外の選択肢は取られない。そこにややさみしさを覚えなくはない。

 

一週間刀ステを完走した奥さんは満足げな顔で、きょうは泣いた、と言った。充実した時間を過ごせたようでよかった。

 

2020.05.30

起きたら食パンで作られたミッフィーちゃんとミニオンがいた。同居人が作ってくれていた。奥さんとふたりでかわいいー! と言って目をえぐり出し二つに折ってむしゃむしゃ食べた。

ケーキを買いに駅前まで散歩。暑くて茹る。近所のケーキ屋さんはとても感じが良かったけれど小ぶりで物足りなかったのでシュークリームだけ買って、コンビニで各種書類を印刷して一度戻る。給付金のあれこれをあれしてまた出て、投函。今度は大きい方の町に出て、ホールのショートケーキを買う。お腹が空いたので駅ナカの回転寿司へ。粉末のお茶を溶かすためのお湯が出るやつは、Twitter の悪い人たちによって手を洗うための蛇口だと教えられている。なのでふたりできちんと手を洗って、手の皮はすっかり剥けた。こうしてみると僕たちは外でいろんなものに触っている。この前大型の本屋に行った時、在庫検索機が使用できなくなっていて、タッチパネル、と思った。

帰宅して、来月半ばまで無料期間のディズニーシアター で『ファインディング・ドリー』を観る。シーでのアトラクションでも格好良かったタコが目当てだったが、普通にとっても面白かった。タコはもちろん格好良かった。ピクサーの中でいちばんの格好よさかもしれない。ドリーのキャラクター造形は僕はまじで怖くて、イッセー尾形の「駐車場」というコントと同じ不安を覚える。僕もすぐに忘れてしまう。奥さんと思い出話をしていても、半分くらいはピンときていないままに話していたりする。そのうち思い出したような気になるが、ほんとうに思い出したのか、そんな気になっているだけなのかわからない。出会った頃や暮らし始めた頃の記憶なんてかなり曖昧で、もうずっと一緒にいる気がする。だからたまに一人だった時のことを思い出すと、色んな人に申し訳なくなったり、恥ずかしくてたまらなくなったりする。話が逸れたが、とにかく覚えていられないというのは恐怖で、ドリーの困惑がいちいち真に迫ってきてつらかった。タコがいてよかった。ほんとうによかった。

 

夕食は食べきれないほど山盛りの鶏南蛮をリクエストしていた。これも一緒に暮らし出した時僕がおいしいおいしいと感激していたもので、おいしいものは僕は大好きな奥さんにも沢山食べて欲しいので、いつも大皿のちょうど半分を食べて止していた。それが不満だったわけではないが、物足りなかったわけではある。それで今日は僕だけで一皿独り占めして、山盛りのそれを食べさせてもらった。量でスペシャル感を出すの、すごい楽しくて、嬉しかった。もりもり食べて、ちょうど満足するくらいで最後の一口だった。

ケーキも美味しくいただいた。ちゃんと部屋を暗くしてロウソクに火をつけてくれたのだけど、奥さんがやたら照れながらバースデーソングを歌ってくれるのがとても可愛らしくて何枚も写真を撮った。いいからはやく吹き消してよ、と笑われる。

 

二十時からは奥さんは刀剣乱舞。僕は友人に誘われ、『結婚の奴』感想会をZOOM で。ZOOM って初めてだと思っていたが、そういえば四年くらい前に寄居の廃墟を直して使えないか、みたいな話があってその時のメンバー間での打ち合わせがZOOM だった。iPad に一度アプリを落とした形跡があったのでそれを思い出した。懐かしい面子が揃って同窓会のようでもあった。本の話から、必然的に話題は家族や結婚についてのそれぞれの価値観に移り、結局奥さんも途中から加わり、今の状況のことや、演劇をはじめとした文化の応答の必要がどれだけあるのか、など、関係ない話も盛り上がりけっきょく寝たのは3時だった。深夜テンションで余計なことも口走った気がする。

それでふたりで、まじかよ、椅子から立ったら明け方まで起きてた時の体の感じでうわあってなった、などと話しながら、寝落ち。

2020.05.29

労働しながら『労働と思想』を終える。考えるヒントに富んでいて、これまでも色んなところで見聞きしていた固有名詞への解像度がちょっとだけ上がるような気がしていい本だった。

 

『震える虹彩』もとうとう終えてしまって、写真も文章も、ひんやりとするくらい巧い。「震える虹彩についての、いくつかのこと」まで含めていい本だった。

 

夜は好物の鶏肉のトマト煮とたいめいけん風サラダ。おいしい。この献立は、奥さんと暮らし始めたころ、奥さんが作ってくれておいしいおいしいとはしゃいだので、よく作ってくれる。今週は僕の誕生日があったのでこの週末はスペシャルな扱いを受けるのだ。

 

食後は奥さんと刀剣乱舞。『ハッピー・デス・デイ』──オタクはみんな好きなやつ──だった。みんな頑張ってて可愛い、と若い男の子を見ても思うようになってきていて、たしかに歳をとったと思う。

 

2020.05.28

ハリポタ、ホックシールド、ハリポタ、スピヴァク、ハリポタ、ムフ、ハリポタ、ベック。

 

ハリー・ポッターと合理主義の方法』は、要はなろう小説なんじゃないだろうか、そうだとするとなろう小説というのは面白いんだろうな、と思う。原作を完読していないのでフェアではないが、原作よりずっと面白いんじゃないかと思える。そして原作も読みたくなる。二次創作として理想的に過ぎる。善悪の二元論に回収しきらないからこそのサスペンス。四分の一ほど読んで、いまだこれが好みの展開に転ぶのか、すごく嫌いな展開に至るのか、まったく予想がつかない。まったく心を許せないまま、しかしもう手遅れなほどに没頭している。これで最終的に嫌いな話だったらとてもつらい。

 

アウトライナーでの執筆を試していて、たしかに階層化できるのは考えを整理するのに非常にいい。これまでノートに書いてきたメモをWorkFlowy に書き写す。しかし結局note の下書きは頭からどんどん書いていく。〆切を自分で決めないと書かなそうなので、月に三本公開とか、ノルマを決めて宣言する必要がありそうだ。

 

久しぶりの友人からLINE があって、嬉しい報告に思わず電話しておしゃべり。

夕飯はとうもろこしご飯、ナスの煮浸し、豚こまとゴーヤのスープ、豆腐のやつ。

 

奥さんと刀剣乱舞の配信を見る。これまでは奥さんだけで見ていたが、きょうのは短くて、それに二人で行った小田原城での上演だから、とのことだった。それで見ている。雨がめっちゃ降ってる。

2020.05.27

『労働と思想』はラクラウ。わかるようなわからんような。『通勤の社会史』を終える。あとはずっとハリポタの合理主義を追う。

GEZAN の、十三月のYouTubeチャンネルにアップされた二本のドキュメンタリーをみる。NEO POGOTOWN も映っていて、いいなあ、と思う。こういう場所が作りたい。外向けの言葉でなく、親密圏の内側で発せられる声がそこにはあって、それがよかった。ずっと『狂』を聴いている。

 

第1回「書くこと」はなぜ難しいのか? - 苦しみの執筆論 千葉雅也×山内朋樹×読書猿×瀬下翔太:アウトライナー座談会 | ジセダイを読んで、書くというのは大変なことだなあと思うが、僕はこの日記もそうだけれどなるべく一文を長引かせて思考をうねらせるというのをずっとやっていて、なので整合性や簡素さよりも脱線や飛躍をこそ重視している書き方をしてきていて、いま書こうとしているものはどちらかというとそうした書き方では具合が悪いようなところもあったので、大変な方の書き方もやってみるか、とWorkFlowy でアウトラインを書き出してみる。いつもと違う筋肉が使われる感じがあって、それは学生時代のレポート作成を思い出させた、僕はレポートが下手だった。この日記や、さいきん試しているラジオ的なものもそうだが、僕は基礎を疎かにして、というよりも基礎というものの不足を自覚したうえで、基礎がないなりの方法論というのを試してみたいところがあって、簡単なブログの文体やラジオの語りの技法というような、「ぽさ」になるべく寄りかからないでやってみるということをやりがちだった。バズらない、のどごしで勝負しない、というのが僕のスタンスだった。しかしそれはバズろうと思えばいつだってのどごし勝負できるということではなく、それは僕にはできないことだった。バズらないなら、安心して既存のプラットフォームを使える。プラットフォームの片隅で、数の論理の埒外で、プラットフォームの規範からはみ出して行為する、それが日記やラジオで僕が実践しているつもりのことだった。素人くささを、安易に手放してはいけない。アウトライナーを使って書くことは、どれだけ僕の素人性を抑制するだろうか。すこし楽しみだった。

 

奥さんは今週は見たい配信がたくさんあるので夜は単独行動だった。話しかける相手がいない中で話せるかもう一度チャレンジしてみようと思って、stand.fm で生配信をやってみる。いくらかコメントがあって、相互のコミュニケーションがありさえすれば、発言の取り返しのつかなさい状況がありさえすれば声を出せるとわかって楽しかった。その勢いで収録のほうも終えた。こちらも結局編集せずにそのまま出すだけなので、生で語ってアーカイブしてもいいのかもしれない。でも生だとコメントに反応したいし、そうやっていちいち気を取られて脱線していくほうが面白いだろうと思う。テーマを決めてそれだけを話すというのは、文字だといいが声を使うのであればあまりいい方法ではない気がして、もっと気や話題を散らしながらの雑談にしてしまってもいいかもしれない。

2020.05.26

すっきり起床、労働、ハリポタ。

奥さんが綺麗に梱包してくれた日記本を、郵便局に出しに行く。午前のうちから外出できると気分がいい。

洗濯したての部屋着が臭いと奥さんが言い、槽洗浄を開始した。11時間もかかるらしい。ついでに風呂場のカビなんかも簡単に擦り取った。一仕事した感じがある。

 

『通勤の社会史』はロマンと死に彩られた通勤黎明期の記述を終え、現代に入る。日本の満員電車への言及に至って、ほとんどが痴漢という「文化」がある、という話に割かれており、まじでこんなことを書かれるこの国はクソだな、と思う。しかし書き方も──日本の書き方ではなく、日本はもっとディスられてよかった、そうでなくて、女性に対する態度がなんか舐めてる感じが伝わってくる文章だった──非常に嫌な感じだったので、そもそもこのイアン・ゲートリーという人への嫌悪感も募った。嫌な気持ちのまま、嫌な気持ちになるためにわざわざ田山花袋少女病」を青空文庫で読む。

 

それから『労働と思想』。楽しみにしていた斎藤幸平によるネグリ=ハート。面白かった。『なぜいま家族のストーリーが求められるのか』では「公私混同」を軸に現代を分析していたけれど、僕はなんだか不足している感じがして、それはおそらくここで論じられるような「共」の概念だった。小倉ヒラクがかつて「ネオ豪族」と名付けたような、ローカルなコミュニティの相互扶助。それは「公」でも「私」でもない「共=コモン」だった。コモンといえばイリイチの「静けさはみんなのもの」という言葉を引いた若林恵の文章や、クリエイティブ・コモンズを論じるドミニク・チェンを思い出す。新自由主義的なテック楽観主義でなく、人文的な「共」に比重が置かれていたからこそ、若林時代の「WIRED」が好きだった。「共」は、みんなのもの。

ラクラウ読んで、グラムシに戻り、いま一度ハッとする。

 

一九七〇年代の資本主義の危機は、フォーディズム的な蓄積体制と調整様式の破綻を意味していた。すなわち、消費主義、支配的な価値としての「成長」と「進歩」、自然環境の酷使、強い労働組合と企業との社会的パートナーシップ、福祉国家的施策などに特徴づけられるヘゲモニー・プロジェクトは、六〇年代まで社会的同意を獲得してきたが、もはや持続不可能となったのである。この危機を克服しようとする新自由主義ヘゲモニー・プロジェクトは、金融市場の自由化や情報機器テクノロジーの飛躍的な進化などを利用して、九〇年代以降とくに進展した。多国籍企業の世界戦略にたいして、有利な「立地点」を提供するために、各国の政治は誘致競争で勝ち残ることを目標にするようになり、議会政治は選択の余地をせばめられている。非正規雇用化や社会保障の縮小などにより、「成長と消費の増大とのフォーディズム的な連関は崩壊した」(「国家』一三五)。自然や知識等の商品化が進み、社会の「全般的資本主義化」が顕著になるなか、労働関係のフレキシブル化は賃金格差を拡大させ、平均的な実質所得を低下させるように進展した。その結果、「支配的な市場メカニズムと競争メカニズムの枠内で『企業家としての』個人の自己実現と自己形成に訴えること」(『国家」二二二)が、支配的な言説になったのである。

石英人「グラムシ ポスト・フォーディズム時代のヘゲモニー」『労働と思想』(市野川容孝・渋谷望編、堀之内出版) p.174 

 

だいぶいま考えたいことにクリティカルな感じがするのだけど、きょうはもう思考が回らないみたいで、ひとまずメモしておくに留める。『労働と思想』寄稿人が多数参加している『『資本論』の新しい読み方』が気になり、著者のインタビューが堀之内出版のnote に上がっていたので読む。これも面白かったが、一日の思考能力の限界を迎え、『IN/SECTS』に切り替える。大阪七墓巡りが楽しそう。

 

それからハリポタ、日記、ハリポタ。とにかく読み続けていたいみたいで、取っ替え引っ替えしているが、頭は割と限界で、疲れている。休め、と思う。ハリポタを読む。休め、と思う、『IN/SECTS』を読む。休みたい、と日記を書いて、おそらくまたハリポタを読む。

 

 

 

2020.05.25

日付の変わる頃に布団に入って、午前7時まで寝入ることがなかった。蕁麻疹の予感があって、入社一年目に毎晩のように痒さに目を覚まし、ついに日中職場で発症して早退した、あのころの過度なストレスを思い出す、くだらないことを無視できない状況でくだらないことばかりあった、それらを点検するように思い出し、嫌な気持ちになったのでradikoカーボーイとバナナムーンを聴いてやり過ごした。爆笑問題はいい。野菜の話で無邪気に盛り上がるだけでこんなに面白いからすごい。日村を餌付けしてシェアされたパピコを、うまいね、と嬉しそうに一緒に食べる設楽もいい。寝れないのは辛かった。

 

それで一日朦朧としていた。仕事はほとんど手につかない。『通勤の社会史』をすこしと、『労働と思想』はウィリアムズからカステルまで。フォーディズムからポストフォーディズムへの移行を、筋肉から人格へ、と表現できるかもしれない、などと思いついた。いま作りたい本の構想メモにそう書いた。筋肉とちがって、人格によるサービスはオン/オフのコントロールが難しく、あっという間に消耗しかねない。

重たい頭で、Twitter のタイムラインに流れてきたハリー・ポッターと合理主義の方法 - ハーメルンを読み始める。僕は本も映画も四巻までしか知らないし、登場人物の名前などもほとんど忘れているようだけれど、屁理屈の楽しさは独自のものなので楽しく読む。思った以上にしっかりと物語を読ませていくスタイルのようだった。

 

見かねた奥さんが寝室の掃除や、マットレス環境の整備を行ってくれる。試しに寝転んでみると、まったくちがう。マットレスのポテンシャルが最大化した感じがあったし、空気がおいしい。

 

眠すぎて、刀剣乱舞の配信が始まる頃には寝ていた。25時ごろ目が覚めて、バナナムーンをまた聴く。アイスが食べたい。ぐっすり寝る。