2018.1.10

左手の日に日に細くなっていく薬指にかろうじてひっかかっている指輪をさっきまじまじと見つめてみたら、これはなんてかわいい指輪なんだろうと改めて感心してしまった。

この指輪に決めた日からたぶんもう二年以上が経っているはずで、結婚でもしてみるかとなってからわりと早い段階でこれと決めて我が家にお迎えした。とたんに、はやくこれを嵌めたいという気持ちが起こって入籍の日取りを早めたくらいだった。

こんなことを思うのは、つい二三日前に指輪をなくしかけてヒヤッとしたからかもしれない。
ヒヤッとする事態はそれで二度目だった。
たぶん僕はモノに愛着こそ持てども執着はしない性質のようで、なくしたかもしれないと気がついたとき、一度目ほどはショックが強くなかった。
一度目は「自分は大切なものをうっかりなくしてしまうような人間だったのか」というショックが大きかったけれど、いまではもう自分は大切なものをうっかりなくしてしまいかねないと知っているのでそういう類のショックはもう大きくはない。
それでもやっぱりショックは受けていたのだけれども、それと同じくらいの強さでもって「次はどんなのにしようかなあ」という考えが浮かんでいた。

モノは個人的な情報の記録や伝達、保管のためのメディアであって、なくしてしまったら自分の身体にバックアップが残っているうちに替わりのものを手にすればいいのだと思っている。

とはいえ、そのモノにしか媒介できない情報というのもたしかにあるだろうから、替わりのモノに付与されるのはかつてあったモノがいまはないという喪失の情報だろう。
そうした喪失の情報それ自体がメディアとなって、かつてそのモノが媒介していた情報を媒介する。

きのうイーガンの『ディアスポラ』を読み終えて、すっかりSF気分だ。
昨年のはじめごろに夢中で読んだ清水博『生命を捉えなおす』が、今年のSF気分の育つ土壌を耕していたのだなと気がついた。
本を読むことは、他者を自分のうちに受け容れるということだ。
他者との混濁から、あたらしい自分の相貌が表れてくる。

あたらしいアプリに対応するためにOSをアップデートするようなものだろうか。
アップデートしたOSでは、これまで想像もしていなかったものやことを、それまで想像もできなかった方法で走らせることができる。
そうやって自分をどんどん書き換えていく感覚は楽しい。

いまはとにかく手当たりしだい他者と交わって混濁したままの状態だ。
ここから上澄みを掬うように、これからの自分を、ある程度安定した形に決め込んでいかなくては日常生活に支障が出てきそうな予感がある。
溜め込めるだけ溜め込んだら、そこから何を捨てるかが自分をつくる。
自分の身体というメディアに溜め込める容量には限界がある。
けれども捨ててしまえば、その捨てたという情報それ自体が、あたらしい情報のメディアになる。「あれを手放した」という記憶それ自体が、外部記憶装置となるのだ。

手放すことは、拡張することなのだ。

今はなんだかそんなような気持ちでいる。
とりあえず、なるべく指輪はなくさずにいたい。

2018.1.4

きのうは奥さんと二人、ガストでドリンクバーパーティを催した。
パーティは夜中の1時まで続いた。

そこで出た話題で面白かったのは、奥さんの趣味があまりおしゃれではないことの奥さんによる自問自答で、そこから導き出されたのは「あなたはおしゃれなものが好きなのに、あなた本人はおしゃれではない」という指摘だった。
とんだとばっちりだ。

きれいなものが好きであることと、本人がきれいであることとは、別のことだ。
自分を好きになるために、自分がきれいであるに越したことはないけれど、自分がきれいだと思うきれいを自らに要求するあまり、かえって自己嫌悪に陥ることだってありうる。
僕らはお互いに、自分の美意識と、その審美眼を自らに対してはつむることとのバランス感覚が似ているのではないか。
そんな話のさなかに「あなたはおしゃれじゃない」と真正面からバッサリやられてしまったのだ。
ちょっとしょげた。

また、お互いに向けている審美眼に関しても、たとえばもう僕は奥さんが何をしていても可愛い。そういうわけで全くあてにならない。そういう話もした。
だから、理想と現実とを分けて考えられるバランス感覚それ自体はとてもいいものだけれど、ちょっとは自らに自らの美をストイックに要求してみる気概を持たなければ、あっというまにしょぼくれてしまう。


我が家の家訓は「仲よく 楽しく 元気よく」だ。
今年はここに「美しく」を加えたい。

「仲よく 楽しく 元気よく そして、美しく」

もうすでにこの標語からしてダサいが、それはそれでよい。いや、よくないのかもしれない。
ともかく、今年は奥さんにあれれと見直されるようなビューティーを手に入れてみせる。

 

2018.1.3

年末年始は、いつも通りでいようと思っていてもなんだかあわただしく、そして気持ちが改まるようなことになってしまう。
いつもと同じように日が変わるだけなのに、ふしぎと新しく生まれ変わったようなすがすがしい気持ちに誘われるのは新年の魔力だろう。こわい。ついついお蕎麦やらお餅やらを食べたくなっている。

今年もとにかく本が読みたい。
昨年は「発酵」をキーワードに本を読み進めていったけれども、今年は「SFと仏教」をとっかかりに始めてみたいと思っている。

ここにきて物語というものはやはり大事だな、というような気持ちになってきている。
どうしてもその負の効用ばかり目について、物語なんてものはないと言い続けてきた。
いい加減、わざわざないないと言いつのらなくても、ないものはないのだと自然に思えるようになってきた。
すると今度はないものを誰かとつくりあげていくことをいま一度見直してみたいような気持ちが湧いてきている。
ないものがあるような気持ちで囚われてしまってはナンセンスだけれども、ないからといってまるきり拒絶してしまうのも同じくらいナンセンスなことだ。
囚われず、わがものにしようとせず、うまい具合の関係を、ようやく物語と築いていけるような感覚がある。
やってみないとわからないけれど。
やってみることにします。
それは文字通り物語を読んだり書いてみることであるかもしれないし、自分の生活に物語を置いてみることであったりするだろう。
生活における物語とは、たいてい邪魔になるものだけれども、たぶんうまく使えばよく活躍をする道具になるはずで、ようやくうまく使えるような根拠の不明な自信が出てきた。

東京というのは洗練とは程遠い田舎臭い場所だけれど、ここでなかったら洗練された場所があるというわけでもない。おそろしいことにもっと田舎臭いところのほうが多いくらいらしい。
いやになっちゃうけれど、いまいるところで、ありもので、なるべくあかぬけたようにやっていくしかないのだ。

よりよい生活のために実践することとして、今年は下記のことを続けていきたい。

発酵食品づくりとプログラミングの技術を体得する。
筋肉をつけてうつくしく太る。
簡単にはへばらない体力と、よく通る声を獲得する。
日本語と韓国語の勉強をする。

上から順番に優先したい気持ちが強い。
せめて上の二つについては騙し騙し続けたい。
そして気分は「SFと仏教」でいくのだ。

今年は奥さんとの企みごとをのんびりとしかし着実に発表していきたい。
それとは別にお芝居もそろそろやってみたい。

年始に浮かされて気が大きくなっているうちに放言しておこう。
なんだかんだ言ってしまったことはだいたいやる。
やれなかったらやらないけれど。
やる。

 

2017年に読んだ本

今年は読書がはかどった年だった。
学生のころよりもたくさん本を読んだかもしれない。
いまの自分の出来うる限り、解像度を高く保って一冊を通読するという意味では今年ほどきちんと本を読んだことはなかったと言い切れる。

 

どの本を読むにしても人生と言うと大げさだけれど、自分のいままでとこれからの働きぶりや暮らしぶり、つまりは生活を考えるために本を読み、そのなかで自分というOSは何度もアップデートされたように感じている。
なので自分という媒体をどのようなものたちが通過していったのかを記録しておくことで、自分の変容していった痕跡のようなものが見えてくるかもしれないと思い、メモとして残しておく。

単純に1月から読んだ順番に書き出してみた。


こうしてみると週に一冊くらいのペースで読んできたらしいけれど、4月の異動までは本を読む時間も体力もなく忙しくさせられていたから、体感としては読書の密度はもっとずっと高い。

まだ幾日かあるけれど、ここからが繁忙期なのでおそらく変動はないと思う。
ポーランの『人間は料理する 空気と土』は読み終えるかもしれない。
翻訳者と出版社は無精して省略してしまった。かなり心苦しいけれど書き足す気力はなかった。

 

【読了(通読)】
マクドゥーガル『BORN TO RUN: ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族”』
いつか床子『別人帳』
森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』(再読)

清水博『生命を捉えなおす 増補版』
國分功一郎『中動態の世界』
檻之汰鷲『生きるための芸術』

福岡伸一生物と無生物のあいだ
トーマス・ウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』
小倉ヒラク『発酵文化人類学
三品輝起『すべての雑貨』
木村俊介『インタビュー』
ブルーノ・ムナーリ『モノからモノが生まれる』
渡邉格『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済学」』
寺田啓佐『発酵道 酒蔵の微生物が教えてくれた人間の生き方』
ブルーノ・ムナーリ『ファンタジア』
スヴェンセン『働くことの哲学』
スヴェンセン『退屈の小さな哲学』
森田真生『数学する身体』
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(再読)
佐々木正人アフォーダンス
松岡正剛×ドミニク・チェン『謎床:思考が発酵する編集術』
ウェルベル『蟻』
安田登『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』
安田登『能』
藤本智士『魔法をかける編集』
ブコウスキー『ポストオフィス』
高野秀行『謎のアジア納豆:そして帰ってきた“日本納豆”』
イーヴァル・エクランド『数学は最善世界の夢を見るか?』
多和田葉子『エクソフォニー』(再読)
リビルディング センター ジャパン『Rebuild New Culture』
渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』
IAMAS『アイデアスケッチ アイデアを<醸成>するためのワークショップ実践ガイド』
トーマス・トウェイツ『人間をお休みしてヤギになってみた結果』
ドナルド・キーン『能・文楽・歌舞伎』の「能」
ラファエル A.カルヴォ/ドリアン・ピーターズ『ウェルビーイングの設計論』
安田登『あわいの時代の『論語』 ヒューマン2.0』
中村雄二郎『臨床の知とは何か』
國分功一郎『中動態の世界』(再読)
渡邊淳司『情報を生み出す触覚の知性 情報社会をいきるため感覚のリテラシー
國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』
宇野邦一ドゥルーズ 群れと結晶』
松岡正剛空海の夢』
おかざき真里『阿吽』1〜3巻
ドミニク・チェン『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』
ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
なだいなだ『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』
士郎正宗攻殻機動隊』1・2巻
マイケル・ポーラン『人間は料理をする 火と水』


【拾い読み】
芳川泰久/堀千晶『増補新版 ドゥルーズ キーワード89』
Mark Frauenfelder『Made by Hand ポンコツDIYで自分を取り戻す』
老子老子
コリン・フレッチャー『遊歩大全』
畑中三応子『ファッションフード、あります:はやりの食べ物クロニクル 1970-2010』

 

【読みかけ】
マイケル・ポーラン『人間は料理をする 空気と土』
サンダー・E・キャッツ『発酵の技法』
川添愛『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット:人工知能から考える「人と言葉」』
大野晋『日本語の文法を考える』
ドゥルーズガタリ千のプラトー
Fabの本制作委員会『実践Fab・プロジェクトノート 3Dプリンターレーザー加工機を使ったデジタルファブリケーションのアイデア40』
テクタイル『触楽入門 はじめて世界に触れるときのように』


【図書館で借りただけで読まなかった本】
ニコラス・P・マネー『生物界をつくった微生物』
アン・マクズラック『細菌が世界を支配するバクテリアは敵か?味方か?』
ニコラス・P・マネー『微生物 目には見えない支配者たち』
サンダー・E・キャッツ『天然発酵の世界』
ニック・レーン『ミトコンドリアが進化を決めた』
ニック・レーン『生命の跳躍』
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』
アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳 心と脳と身体の神秘』
アントニオ・R・ダマシオ『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ
司馬遼太郎空海の風景
小倉 紀蔵『韓国は一個の哲学である <理>と<気>の社会システム』

2017.12.24

 


この前の続き。

コミュニケーション能力について考えます。

 

前回、コミュニケーションを「相手にはたらきかけ、創発的な<場>を醸成する技術であると定義しました。

そしてそうした<場>を醸成するには適切な情報の交換が必要となるということで①相手に分かるように伝えること、②相手の情報を相手の意図通りに理解すること、という二つの要件を見つけ出し、そのうち①について考えてみるところまで書きました。

 

今回は②相手の情報を相手の意図通りに理解することについて考えていきます。

 

 

 

相手の意図通り理解することは、コミュニケーションにおいて大きな勘所であり、かつ最も危険なポイントでもありそうだという予感があって、それはこれが支配や権力に関わることだからです。

 

だからまずもってこれだけははっきりさせておきたい。

相手の言動を相手の意図通り理解することと、相手の思い通りに行動することとは、全く違う。

むしろ、相手の意図通りに理解することは、相手に自分を支配される危険性から身を守るためにこそなされるものだと思っている。

自分を支配しようとしてくるものを知ることは、そのものからの自由への近道なのだ。

 

次に、僕たちは基本的に誰かの言葉や行動を理解なんかしちゃいないということも前提としておきたい。

この文章も、普段のおしゃべりも、多くの場合僕たちは他人を理解なんかしていない。

しているとしてもそれは自分自身の情報処理システムにのっとった理解であり、システムがちがえば理解の仕方も変わってきてしまうという事実への盲目のうえに成り立っている。

僕たちが「理解した」というとき、それは「自分が選び取った情報処理システムが正常に動作した」以上の意味を持たない。

基本的に他人は自分とは異なる仕様のシステムでもって言動を作動させていると考えたほうがいい。われわれはお互いに未開のバルバロイなのだ。

 

「相手の意図通りに理解する」とは、相手の情報処理システムの仕様を明らかにすることにほかならない。

さっきから言っている「情報処理システム」というのは伝わりづらいだろうか。「認識の方法」でも、あるいは単純に「価値観」と言い換えてもいいのかもしれない。

けれどもここではコミュニケーションの主幹に「情報の交換」というものを置いているので、「情報処理システム」という言葉に統一したいと思う。書いているうちにブレるかもしれない。それは僕のシステムの欠陥ゆえだから、愛嬌ある個性だと思っておのおのの中でうまい具合に修正しておいてください。

 

いったんここまでの話を、言語コミュニケーションに的を絞って整理しておきます。

僕たちはみんな同じ言葉を使っているようにみえて、それぞれまったく異なったルールに基づいて言語という情報を処理している。

誤解や衝突などという、コミュニケーションの失敗は、たいていこの「皆それぞれ持っている情報処理システムの仕様が違う」ということに気がついていないことが原因で起こるのではないか。

「万人に共有されている情報処理システム」という幻想が、コミュニケーションの失敗を生むのだとしたら、コミュニケーションを円滑かつ適切に行うためには、相手の情報処理システムの仕様を理解することが必要なのではないか。

 

必要なのではないかって言ったって、そんなことができるのかしら。

そこがちょっと僕にはまだ自信がないところなのだけれど、まずこの情報処理システムは思っている以上に多種多様なバージョンがあることを見失わないこと、そして自分の情報処理システムの仕様をなるべく精確に把握しておくこと、このふたつから根気強く始めていくしかないように思う。

 

「万人に共有されている情報処理システム」という幻想から自由になるためには、自分の情報処理システムが自明のものではないということを認めないことには始まらない。

自分はどんなふうに他者や環境からの情報を「理解=理論(システム)を解き明か」しているのか。

自分の情報処理の癖やバイアスを点検すること。

けれどもこの点検も自分の情報処理システムによって行われるのだから、これは簡単ではない。

けれども簡単ではない自分の基幹システムの分解と再点検という作業は、おのずと他のシステムの構築される手順への想像力を鍛えるだろうと、楽観的な僕は予測している。

他者との関係を考えるとき、まず取り掛からなくてはいけない他者は自分自身である。

諸法無我という言葉に表されるように、自分というのは他者との関係性の「あいだ」に立ち現われてくる現象に過ぎないのだから、自分を分析することはそのまま自分を取り巻く他者のありようを分析することに直結しないほうがおかしい。

 

人はそれぞれ独自の情報処理システムを持ち、情報の入出力を繰り返している。

そして情報の創発的な相互作用によって、自分という現象が立ち現われる。

いま、自分がしんどさを感じているとしたら、それはこの相互作用のシステムになにからの問題があるのかもしれない。

そしてその問題は、個々の情報処理システムが噛み合っていないことに起因する。

情報処理システムと相互作用のシステム、システムがダブついてしまって読みにくいことこの上ないけれど、むりくりこのまま話を続ける。ここでは前者が要素、後者が要素の集合体としての構造を意味する。

 

コミュニケーションにおいて個人がしんどくなってしまうとき、そもそも仕様の違う情報処理システム同士が衝突してしまっている可能性が考えられる。それはそもそもうまく作動しっこない諸要素(個人は関係性のパーツである)がひとつの相互作用システムのなかに放り込まれてしまっているということだ。

そして具合の悪いことに、こうした不具合を抱えた相互作用システムは不具合によってその動作を停止させることはまれなのだ。

たいていの場合、どちらかの情報処理システムが「万人に共有されている情報処理システム」のような顔をして、他の情報処理システムを抑圧し、支配することで相互作用のシステム自体は見かけ上「正常に作動」してしまうのだ。

 

はじめのほうに、相手の言動を相手の意図通り理解することと、相手の思い通りに行動することとは全く違うと書いた。

ここでいう「相手の言動を相手の意図通り理解すること」は、相手の情報処理システムがどんな仕様であるのかをなるべく精確に分析してみせるということだった。

そして「相手の思い通りに行動すること」とは、相手の情報処理システムを「万人に共有されている情報処理システム」であると錯覚し、自身の情報処理システムを抑圧することで相手のシステムの支配下にはいることを意味する。

 

自分の情報処理システムの仕様を抑圧して、新規に他者の情報処理システムを導入するというのは、コミュニケーションではない。

そこにあるのは<場>の画一化であって、創発的な<場>の醸成はないからだ。

コミュニケーション能力は誰かを支配する技術ではない。そう思いたい。

 

では、仕様の異なる情報処理システムを持つ僕たちはどのようにして支配・被支配の不均衡に陥ることなく、調和を醸成するようなコミュニケーションを行うことができるのだろう。

 

僕たちは、仕様の違う情報処理システム向けに、自身の情報を「翻訳」して伝えなくてはいけない。(①)

そのためには相手の情報処理システムの仕様を知る必要がある。それは自身の情報処理システムが唯一絶対のものでないことを知り、その構造を把握しようという試行錯誤から始まる。(②)

このようにお互いの情報処理システムの相違を明らかにして初めて、異なる情報処理システムが気持ちよく共存する<場>を醸成するための端緒が開かれるのだと思う。

 

コミュニケーション、思った以上に複雑怪奇……

 

考えながら書いて書きながら考えていったので、いつも以上に読みにくい、コミュニケーションの取りづらい文章になってしまった。

 

きちんと見直して推敲したいけれど、今日はもう疲れたのでここでおしまい。

 

2017.12.19

行動学で言うコミュニケーションとは、他個体の行動の確率を変化させて自分または自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセスのことである
ジャレド・ダイアモンド長谷川寿一訳『セックスはなぜ楽しいか』

弟のブログでこの言葉を知り、いいなあと思ったので書きます。

コミュニケーション能力って大事。
これは最近とても真剣に感じていることで、どうやってもこの課題を解決しないことには先に進めない。
先に進みたいのなら、解決するしかない。
ものすごい出不精の僕が、本当にわざわざ先に進みたいかどうかは、進めるようになって初めて検討の余地が生まれるので、元気のあるうちに解決しておくに越したことはない。
ということで解決してみましょう。

先の引用に従ってコミュニケーションを「自分や相手にとって最適な状況をつくりだすために他者にはたらきかけるプロセス」だとするならば、コミュニケーション能力は「自分や相手のために最適な状況をつくりだすために、お互いの情報を適切に交換するための技術」とでも言えそうだ。

この文脈でいうと最近だとこの記事なんかが面白かった。
https://series.yahoo.co.jp/feature/hitomishiri/3/
すでに記憶があいまいだけれど、コミュニケーション能力とは、知らない人ともすぐに楽しい雑談を弾ませられるというような「社交性」とは区別するべきもので、「情報伝達の技術」のことなのだ。そういう記事だったように思う。

コミュニケーションは最適な状況を目標とした他者へのはたらきかけであり、そのはたらきかけとは情報の交換のことなのだ。
こうなるとコミュニケーション能力とは何かを考えるには、適切な情報交換とは何かを考えてみなくちゃならなそうだ。

適切な情報の交換のために必要な要件として、①適切な伝達、②精確な理解、があげられそうだ。ここでいう適切な情報の交換とは、双方向の出力(①)が過不足なく入力(②)されたうえで、お互いの入出力の創発的な変換が起こることだ。
創発的な変換とは、お互いの知っていることを伝え合うことで、それまでその場の誰も想定していなかったようななにかがコミュニケーションの<場>に立ち現われてくることだと言える。

コミュニケーション能力とは「情報の創発的な変換が起こりうるコミュニケーションの<場>を醸成する技術」と言ったほうがより解像度が高いかもしれない。

コミュニケーションにおける「最適な状況」とは「創発的な<場>」が醸成されることだ。
そしてそうした<場>を醸成するには適切な情報の交換が必要となる。
そのためには①相手に分かるように伝えること、そして②相手の情報を相手の意図通りに理解することが不可欠だ。
ここでは①②と番号を振っているけれど、べつにここに前後関係も優劣もない。
どちらから始めてもいい。ここでは①から始めてみる。

①相手に分かるように伝えること

「俺に分かるように話せ」

自らの無能を棚に上げて貧しい語彙と経験のみで世界のすべてを語ることができると信じているアホが世の中には多すぎる。
そういうアホに限って上記のセリフを水戸黄門の紋所のようにドヤ顔で掲げ、有能な僕の言うことに耳を貸そうとすらしない。

そんなことを思っていた時期もありました。
いまは無能はお前だと当時の自分に言ってやりたい。
衆愚に迎合するのか、と自分は言うかもしれない。

ともかく人は人の話を聞かない。
理論として破綻がないことを納得したからといってなんとなく腑に落ちなければ、せっかくの美しい理論も聞き流されてしまう。
腹をくくったと思っていても、どうにも理屈が通っていないと思っているうちははっきりと行動に移すことはまれだ。
頭かお腹どちらかで「分からない」と思ってしまったら、もう人は誰かの言うことに耳を傾けたりしない。

「俺に分かるように話せ」というとき人は、理屈と感情の両方に過不足なく納得を欲望している。
「有能な僕の言うことに耳を貸そうとすらしない」といじけていたころの自分はこの欲望が見えていなかった。特に相手の感情で納得したいという欲望が。
そして「うつくしい理屈」を通そうとしていた僕は、僕自身の「この理屈を練り上げた自分を受け入れてほしい」という感情に対しても盲目だったのだ。
この自他の感情に対する盲目のために、僕は僕の言葉で練り上げていった理屈に固執した。これは自分の感情を納得させることへの欲望の過剰だ。
この過剰のために、僕は自分の理屈を相手にわかりやすい言葉で言い換えるというような伝達上の工夫をこらそうなどという発想ができなかった。
そのため、相手の感情の納得はおろか、理屈としての納得に至る素地も、そこにはなかったことになる。

僕の無能は、「俺に分かるように話せ」にまつわる納得への欲望に対する解像度があまりにも荒かったことに原因があった。

分からせるとは、相手の感情と自分の理屈の衝突ではなかった。
相手と自分、双方の理屈と感情の調整でしかなかったのだ。
相手の感情や理屈を無視することも、自分の感情や理屈を抑え込むことも適切ではない。
どちらの要素もなかったことにせず、うまい具合にアレンジメントをほどこして、お互いを分からせてやる必要がある。
でもそれってすっごく面倒くさいことだ。

いやいや、それでも、分からせてやろうじゃないか。
突然ですがさいきん『阿吽』を読み始めて、いまは三巻まで読んだ。
最澄のストイックさに胸が苦しくなるのだけれど、最澄がすべての人を救いたいと言うのなら、みんなに自分の言っていることを分からせてやりたいというこの気持ちなんかはあまりに小さい。無謀というには小さすぎる。面倒というには、もっと小さすぎる。

長くなって、疲れてきてしまった。
最後のパラグラフなんか雑すぎる。
「②相手の情報を相手の意図通りに理解すること」についてはまた次回。

 

 

 

 

 

2017.12.07

本を読まない時期は「あれ、この人こんなに口数少ないんだっけ」と思うし、いざ本を読みだすと「こいつ本を読むとほんとよくしゃべるな」と思う。
本以外のインプットではそんなにしゃべらないし、本からのインプットしかアウトプットに繋がらない体質なんじゃないか。

きのうの帰り道に奥さんはそんなようなことを言った。
英国ロイヤル・オペラ・ハウスの『不思議の国のアリス』を観に映画館に出かけた帰り道だった。
きのうの無口の原因の八割は空腹由来の不機嫌だったことは疑いようがないけれど、それでもたしかに僕はバレエの感想をうまく言葉にすることができない。
それはまたバレエというものを頭からおしまいまで観るということ自体きのうが初めてだったことも少しは関係あるかもしれない。
けれどもついこのあいだ初めて見た能は、かなり饒舌に気持ちよくしゃべった。
能は入門書から謡本、日本語文法の生成史まで目を通し、かなりブッキッシュな態度でのぞんだから、これもまた本からくる饒舌だともいえる。

不思議の国のアリス』はすごく良かった。
かわいいし、きれいだった。
けれども、これ以上の言葉は出てこない。

テクストの表れない身体表現の面白さがわかるような気持ちになったのもついこの間のことで、それは大学時代の演劇との関わりの中でそれこそ「体感」していったことだけれど、そうした演劇の身体性について言葉にしようという気持ちは当時ふしぎと起きなかった。
ちゃんと言葉に起こしてみたいと思いついたのは先月読んだ中村雄二郎の『臨床の知とは何か』や渡邊淳司『情報を生み出す触覚の知性: 情報社会をいきるための感覚のリテラシー』の影響が大きい。

テクストであればテクストに置き換えられる、というような話でもない。
あらゆるテクストは言語という画材を使った絵画、音を使った音楽、ノミを使った彫刻であって、それが言葉で書かれているからといってかんたんに言葉で再現できるようなものではないから。
絵画や音楽や彫刻などの作品を、言葉を用いて十全に再現できるなどという意見は、多くの人から直観的に否定されるだろうけれど、テクストとなるとどうもこのことが見えづらくなる。

そもそも書かれた言葉と話される言葉は全くちがう。書かれた言葉は視覚によって受け取られるけれど、話される言葉は聴覚によって受け取られる。
これは受付の窓口が違うだけで、結局は読むことも聞くことも書くことも話すことも体のまるごとで行われるのだという考えが最近僕の中では主流なのだけれど、ともかく入り方がちがえばそれはもう全然違うともいえるだろう。
我が家に玄関から入ってきた人と、天井を突き破って入ってきた人とでは応対の仕方が変わるように。

あらゆる作品に触発されて行われるおしゃべりや書き物は作品の「再現」ではなくあたらしい別個の作品なのだ。ここでは作品への感想というようなことを想定して書いているけれど、この「作品」というのは「現実」だとか「出来事」みたいなものに言い換えてもいい。ひっくるめて「情報」としてもいい。ともかく自分を媒介としてそこを通過していった「情報」が、通過する前と後とではすくなくとも異なった性質を帯びている、というようなことが言いたい。それは自分を通過する前の姿とかなり似通っていることもあるだろうし、まったくの別物だと言い切ってしまいたくなるものもある。

僕という媒体は、テクストを入力するとおしゃべりを出力するというのが得意技らしい。
おしゃべりという入力をおしゃべりと言う出力で返すのは苦手だ。
だからこうしてきのうの奥さんとのおしゃべりの続きをテクストで返している。
おしゃべりをテクストで返すのもわりあい得意なようだ。
テクストをテクストに変換することはその次くらいで、苦手というほどでもないけれどすこし苦労する。

こう考えてみると僕は能やそのほか演劇作品の多くを僕はテクストの表出として受け取っている。これはテクストでもあるし、おしゃべりでもあるということだ。だから感想はおしゃべりでもテクストでもふんだんに返すことができる。
本を読むと僕はまずおしゃべりを経由しないとうまくテクストにできないから、まずは読んで感じたことをべらべらとしゃべりたくて仕方なくなるのだといまこうして書いていて気がついた。


バレエの感想がうまく言葉にならないという話だった。
バレエは能と同じく舞台作品ではあるけれど、テクストが表出するというものではない。
表出しているとしたらそれは身体言語というようなものだ。
僕はこうした身体表現の入力をどのように出力するのだろうか。
とりあえずテクストやおしゃべりなど、言語というツールを用いたものではないようだ。

そういえばバレエなどの舞踏と同じように言語を用いない絵画や音楽の感想を言葉にするのも苦手だ。
やっぱり絵画の感想は絵画でしか、音楽の感想は音楽でしか表せないということなのだろうか。

そういえば昨晩からなんとなく重心を高めに軽やかに歩行することを心がけている自分がいることに気がついた。
これこそが僕なりのバレエへの応答なのかもしれない。