2020.11.29(1-p.365)

奥さんが買い物しているあいだ椿屋珈琲でアーレントを読むのが今日の楽しみだった。デートの最中に奥さんを待つというのがしたかった。正確には、奥さんを待ってる、という大義名分のもと、二人の共通の休みの最中に一人の時間を持ちたかった。それでそうした。とてもいい時間だった。近所の椿やコーヒーはいつも空いているから好き。

(…)実際、私有財産は、共通世界で行なわれる一切の事柄から身を隠すだけでなく、公に見られたり、聞かれたりすることから身を隠すための唯一の場所である。すべて他人のいる公的な場所で送られる生活は、よくいうように、浅薄なものになる。こういう生活は、たしかに、他人から見られ、聞かれるという長所をもっている。しかし、非常に現実的かつ客観的意味で生活の深さを失うまいとすれば、ある暗い場所を隠したままにしておかなければならない。ところが、完全に公的な場所で送られる生活は、このような暗い場所から人目に触れる場所に現われたというふうには見えない。公示の光から隠しておく必要のあるものに暗闇を保証する唯一の効果的方法は、私有財産であり、身を隠すべく私的に所有された場所である。 アーレント『人間の条件』志水速雄訳(ちくま学芸文庫) p.101

家に帰ってから録音をしたのだけど、奥さんの発言で上の箇所を思い出して、それに引っ張られてアーレントの話をちゃらちゃらした。アーレントアジールの必要を認めていないわけではない。大事なのは、暗がりでやることはちゃんと暗がりに秘しておくことだ。

政治体の観点からではなく、私生活の観点から見ると、公的領域と私的領域の違いは、見せるべきものと隠すべきものとの違いに等しい。隠されたものの領域が、親密さの状況の下では、いかに豊かであり、いかに多様であるかということが発見されたのは、ようやく、近代になって、社会にたいする反抗が起こってきてからであった。しかし、有史以来今日に至るまで、印象的なことに、私生活の中に隠さなければならなかったものは、常に人間存在の肉体的部分であった。つまり、隠されたものはすべて生命過程そのものと結びついており、近代以前には、個体の維持と種の生存に役立つすべての活動力を含んでいた。したがって、隠されていたのは、「肉体によって生命の[肉体的]欲求に奉仕する」労働者であったし、肉体によって種の肉体的生存を保証する女であった。女と奴隷は、ともに同じカテゴリーに属し、隠されていた。しかし、それは女と奴隷がだれか別の人の財産だったからではなく、彼らの生活が「骨の折れる」もので、もっぱら肉体的機能に向けられていたからであった。近代の初めになると、「自由な」労働は家族の私生活の中に隠れ場所を求めることができなくなった。そこで労働者は、犯罪者と同じように、共同体から高い壁の背後に隠し去られ、隔離されて、たえず監視されるようになった。近代になって労働者階級と女はほとんど歴史の同時期に解放された。この事実は、もちろん、肉体的機能と物質的関心をもう隠しておくべきでないと考える近代という時代の一つの特徴だとみるべきだろう。「必要物」というのは、もともと人間が肉体をもっているために必要とされるものの意味である。今日の文明にも多少残っている限られた私生活でさえこの意味における「必要物」に結びついていることは、この現象の性格をなおいっそうよく示すものである。 同書 p.102-103

僕は小学生の頃から、学校の用事が家に持ち込まれるのをひどく嫌っていた。なので宿題はろくにやらなかったし、帰りの会が長引くとひどくイライラした。いまも賃労働は勤務時間の外では一秒たりとも関わりたくない。この私的領域とそれ以外の極端なまでの仕分けっぷりが、アーレントを読んでいると、アーレントにわかるーと言われているようで頼もしい。

大学の学部を選ぶときも、零貨店アカミミの活動も、とにかくいつでも役に立つことだけはしたくないという信条があって、自分でもそれがなぜかは説明し切れていなかったが、『人間の条件』を読んでいるとそのあたりの言語化のための素材がいくらでも拾えるように思えてきた。とにかく役に立つことしかないような世の中は貧乏臭くてたまったもんじゃない、ということを、僕はずっと言い続けていたい。役に立たないものごとを愛でるには、必要や必然の満足が不可欠かもしれないが、そうであるならば、当然必要は必然は満足であるべきだし、そのうえで、無駄や無意味をこそ至上のものとして扱うスノビズムをこそ僕は愛する。

 

この世の中に占める自身の場を、財産を、持たねばならぬ。そう思って、note にも戻りたくないし、はてなは広告がうるさい僕は思い切ってWordPress への移行を決意した。せっかくだからポッドキャストアーカイブや、「家」の企画ページも一緒のホームページにまとめてしまいたい。できることならZINE の販路も作ろう。どんどん欲が出てきて、さっそく三年契約でドメインとサーバーを確保した。それからWordPress の使い方を調べていくと、思った以上に面倒そうだった。僕に使いこなせるだろうか。引っ越しの日は近いと思っていたが、まだまだ遠いかもしれない。

2020.11.28(1-p.365)

この一週間、なぜだかめちゃくちゃ椿屋珈琲に行きたくって、僕は近所の椿屋コーヒーがとても好き。仕事終わりに行こうねと約束して、うきうきしていた。ついでにあったかくて可愛いパジャマも買おう、と決めていた。今朝配信の「読書の日記」で、阿久津さんが2巻を買ってくださったことを知る。嬉しい。世は、いやよ正直世とかは知らんが、Twitterとかは、いや「とか」とか書いたけど主にTwitterでは、地獄のような毎日だが、個人の日々としては嬉しいことの方が圧倒的に多いのだよな、一日のうち八時間くらいはTwitter見てるからすぐに忘れてしまうが、Twitterは世ではない。僕の生活は世ではない。

 

退勤して椿屋珈琲に行って可愛いパジャマを買った。Mだとちょっとつんつるてんだった。

 

H.A.B のアカウントで、『プルーストを読む生活』の先行販売店舗の、つまりはいち早く注文をくださった書店の一覧が告知されていて、それをみて、ああ、すごいことだ、本が出るんだ、そして、ほうぼうの棚に、居場所をつくってもらえるんだ、それは、すごいことだ、と込み上げるものがあって、松井さんに対する各書店からの信頼、その信頼に対して、僕もなるべく誠実でいたいな、と思う。何ができるかはわからないし、もうそんなにないかもしれない。でも、なんというか、これからだぞ、まだ始まってもいないというか、これから始まるんだぞという気持ちがやってきた。

 

お風呂に入っていて、やっぱり日記は毎日書くべきとなったので、これからは毎日寝る前までに日記を書くようにしたい。書いておかないとすぐさぼりそうだから、思いついたその日のうちに宣言して逃げ場をなくす。でももちろん逃げてもいい。ちょっと恥ずかしいだけだから。

2020.11.27(1-p.365)

『クイーンズ・ギャンビット』を四話から最終回まで。二週目の奥さんはちょくちょく様子を見にきて、クライマックスからはしっかり座って観て、グスグスと泣いていた。わかる。惚れ惚れとするくらい王道のわくわく感。そのまま興奮を引きずって、なんだかいまいち据わりの悪かった原稿を仕上げる。あしたにはメールできそう。

 

友田さんがポッドキャストを聴いてくださったようで、勢いで出演のお誘いをしてみると、快諾いただけて嬉しい。単純に、友田さんとおしゃべりがしたかった。こういうとき、お茶しましょ、とか、飲みましょ、のほかに、録音しましょ、が加わったのがポッドキャストのいいところだと思う。招き入れるための場を持つということ。僕がしたいのはいつでもそういうことなのかもしれなかったし、きれいにまとめたがりすぎかもしれなかった。

 

生活にはまとまりもなければ、一貫性もない。この日記だって、日々の調子で全然違う。すくなくとも、自分としてはそうだ。読み返して自分で自分が面白くないこともあれば、信じられないほど冴えてるなと驚く日もある。それでいいと思っているし、これからも毎日のようにブレブレでいたい。ひとつのスタンスを貫き通せるの、格好いいし憧れるけども、もうずいぶん前から諦めている。

2020.11.26(1-p.365)

いつも真面目で正しく、純粋なこの人たちが、
つらい思い、はもうとっくにしていると思うけれど、
それでも、これ以上、つらい思いをすることなく、製本の仕事を続けられますように。
笠井瑠美子『日々是製本』(十七時退勤社)

笠井さんの文章は達観とやさしさとが奇妙な具合に同居していて、こういう一文にふいにやられてしまう。変な人たちの観察日記のような距離感がありながら、親密な手紙を覗き見ているような気持ちにもなる。その塩梅が絶妙だった。午前中に息抜きに開いて、おかげで午後まで穏やかな気持ちで過ごせた。なんでだか、今日は僕は一体何がしたいんだろう、ということをずっと考えていて、ただ穏やかに、日々を機嫌よく過ごせればそれでいいんだと思い出すように確かめていた。

 

午後おそくにすこし散歩する。近所のコーヒースタンドで豆を買って、一杯テイクアウトする。コーヒーを淹れてもらうそのあいだに、なにかものを書いていらっしゃるんですか、と問われた。え、なんで、なにを根拠に、とへどもどしていると、だっていつも「読書」ってプリントされたトートバッグを持っているから、とのことで、あんなふうに周囲に読書をアピールする人はものを書いているだろう、とのことだった。入店時も、きょうは読書トートじゃないんですね、と声をかけられて、そうか、読書トートで覚えられていたのか、と思ったのだけど、読書トートは読書家であることをアピールできるだけでなく、なにか書いてそう、ということまで匂わせることができるのだった。H.A.B の話をして、今度本ができるんですよ、とへらへらすると、できたら持ってきてくださいね、とのことで、嬉しいお喋りだった。コーヒーを飲みながら帰る。歩くのが下手で、カップからどんどんコーヒーが溢れて左手の指が濡れていく。冷たい風がすぐに乾かす。

2020.11.25(1-p.365)

通勤電車に揺られながら橋本亮二『本を抱えて会いにいく』。前作もそうだけれど、三〇手前ですでに友達を作る難しさを感じている僕なんかは、橋本さんのまっすぐな人付き合いが眩しくてしかたがない。読むと、橋本さんと友達になりたい、というよりは、僕も橋本さんのように友達を作っていきたい、と思わされる。屈託なく好きな人たちを好きだといい、その人との時間をにこにこと喜ぶ。嬉しいことには素直に嬉しいといい、しょげるときはしっかりしょげる。こんなに素直なまま、人はあれるんだな、というか、僕もそうだったかもしれない、特にこの春以来の僕は、むりに背伸びして、しかめ面をよしとしていたようなところがある。そうじゃなくて、喜びを全力で喜び、悲しみを静かに受け止める、こういう生き方がやっぱり一番かっこういいよ、となにか大事なことを思い出させてくれるような文章で、さいきんはロバート・クーヴァーの露悪的な文章を読んでゲヘゲヘ笑ったりしていたけれど、いま欲しかったのはこういう、真夏の河川敷のような気持ちの良い文章だったと思った。助かった。すごく、助けられた。

 

環ROY の新譜がすごくいい感じ。

2020.11.24(1-p.365)


WOWWOWオンデマンドで『愛がなんだ』を観る。なんだか寂しくてたまらない、という気持ちは、結婚してからもなくなりはしないのだけど、他人との距離を詰めることでぜんぶ埋めてしまいたいみたいなヒリヒリした感じはだいぶ薄らいでいる。どうだろう。誰といてもひとりだ、というのは、僕はいつでも持っていたようにも思う。とにかく、一〇代の未熟な恋愛の痛々しさを思い出すような生々しい感触があって、いい映画だった。みんな知り合いにいそうだし、みんな自分でもありえた。写真撮る男の子の俳優がよかった。
『アナと世界の終わり』も観る。ミュージカルの楽しさとゾンビもののやるせなさが渾然一体となって、前半が楽しければ楽しいほど救いのない──救いのあるゾンビ映画などない──終盤のつらさが募る、これもまたいい映画だった。どうせみんな死ぬ。でも、それは今ここで歌い踊ることをやめていい理由にはならない。
 
AC/DC の新譜が出てる。新譜とは思えないそれをゲラゲラと愉快に聴きながら浴槽を洗う。